冷たい雨に撃て、約束の銃弾を


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香港ノワールだけど主人公はフランス人。その主人公ヴィンセントの存在の微妙さに惚れた。そもそもヴィンセント役のジョニーアリディをほとんど知らなかった。フランスの「国民的スター」だとは・・・世の中知らないことはたくさんある。しかしこの顔。芸能って面白いなあ。60ー70年代は、リーゼントでキめたチンピラ顔の男たちがアメリカや日本だけじゃなく、なんとなく洗練されたイメージのフランスでも伝説的スターだったわけだ。お上品な文化を愛するひとびとに好まれただけじゃ国民的とはいえない。DQN的カルチャー(って言い切ってしまっていいのかわからないけど)は見えにくいだけでどこの国でも広くて深いんだろう。
 若い頃のジョニー・アリディさん
ただこの人もロックンロール&リーゼント&皮ジャン文化の代表で、戦後の一時期のアメリカのポップカルチャーは本当に世界中を席巻していたんだなあとつくづく思う。ゴダールの『勝手にしゃがれ』だってアメリカへの憧れのもとにある。時代が変わると、日本でいえばまずドラマや家電や食べ物が、それから車が、ある意味ではファッションも「お手本」「あこがれ」の王座から脱落していった。音楽だって、少なくとも日本では前ほどの存在感はないだろう。でもかれらが身内の価値観からあみだしたはずの「格好よさ」の記号はどういうわけか普遍的なまでに根強く他の文化圏に浸透した。1940ー50年代に代表されるフィルム・ノワールもそのひとつだろう。アメリカ発の、チープだけれどスタイリッシュな犯罪映画は、フランスでもジャンルを形成したし、香港に流れ着いて一大ジャンルにひろがったわけだ。その最新表現の中をジョニー・アリディが走る・・・二つの国がうけとめた戦後のアメリカン・ポップカルチャーが妙なところで出会ったという気がする。
もちろん彼が主演なのはビジネス上の理由で、この映画プロデューサーはフランス人だ。彼らもこの映画に昔のロックンローラーがぴったり収まると直感したんじゃないだろうか。香港側は出資者が送り込んだあちらのスターをお客様として立てる。ヴィンセントは結構ふしぎな設定なんだけど、定石通りにアクションの主役にしてもらっている。彼は映画にきっちりはまっている。ただし失礼な言い方だけどそのチープさが香港ノワールのどこかキッチュなテイストにはまっているのだ。告白しておくと、アリディを知らなかったぼくは、なんでこのB級悪役俳優がこんなに立てられてるのか不思議に思いながら見ていたのだ。おおまじめに渋く苦悩し、復讐に心を燃やして殺し屋と互角に交渉し、彼らプロに劣らない射撃のウデを見せつけて・・・「でもこいつだし〜〜www」みたいにどこか半笑いにすらなってしまっていたのだ。今は反省している

ストーリーの骨格は一応悲壮な物語で、「どんなことがあっても家族の復讐をはたすと誓った男」「一度かわした約束を守るために死を賭した裏切りに踏み込む男たち」の話なんだけど、感情表現の部分は非常にさらっと通過するので、トータルでもどこかゲーム的な印象がある。特に香港側の3人の殺し屋(アンソニー・ウォンラム・カートン、ラム・シュ=前作『エグザイル 絆』でもおなじみ)は殺すにも殺されるにも非常に淡々としている。監督の作風だろうか。ぼくは香港ノワールの熱心なファンじゃないから勘違いの可能性もあるけれど、このジャンルの特徴なのかもしれない。死や殺しにぐじぐじと悩んでみせるシーンはこの手の映画の客にとっては余計な言い訳でしかなくて、客が必要としているのはしびれるような格好よさなんじゃないか。
この映画は格好いい。ちょっとキッチュだがそういうタイプの格好よさだ。敵の殺し屋も屋台のおじさんそのままの顔でとても地下組織の怖い構成員に見えないのだが、彼らを追う主人公たちと出会う場面のやりとりは渋い。そこにあるのは武士道や騎士道ににた抑制の美学だ。彼らは自分たちを殺しに来た相手に気がついているが、その前に家族との団らんの時間をきっちりと取り、主人公たちもそれを邪魔しない。家族に怖い思いをさせてもいけない、両者は無言でそれをわきまえている。殺し屋たちは主人公たちに礼儀として食事のお裾分けまでする。主人公たちはそれに手をつけないという振る舞いで「手は出さないがあくまで試合開始前だから」という線引きを見せる。
現代性を出すなら、その儀礼的なやりとりの途中でだしぬけに誰かが喉をかき切ったりするだろう。それが今のテンション表現だ。たけしならそうする。でもそれをせず様式の中におさめ切ることで、今の時代に逆に意外性が出ているのかもしれない。
アクションは基本的に銃撃なんだけど、銃撃戦は「殺陣」として見せるタイプの映画。つまり必要以上のリアリティよりは美しい映像的アイディアを重視する。香港の、狭い、中高層ビルがひしめきあう町の中で、そのすき間で追跡と銃撃が展開する。クライマックスはなんだか不思議なアイディアで荒野の決闘になる。これはかなり奇妙。ついでにいうとその後、ある事情でヴィンセントが単独行動になっていくのだがとつぜん可愛い子供たちと楽しげに交流したりして(貧乏な孤児みたいな雰囲気なのだが、あきらかに子供タレントめいた可愛すぎる子供たち)、シュールすれすれの雰囲気のなかでどことなく大団円的におさまっていく。