トゥルー・グリット


公式
西部劇はしばしば旅の物語になる。でてくる人々はたいがい大都市から離れた小さい町々や荒野の一軒家に住んでいるから、物語が動き出して主人公がどこかへ行こうとするとどうしたって旅になってしまう。あるいは旅人がふと物語の舞台にやってきて、また去って行く。主人公たちは馬にのって道もなければ家の一軒もない文字通りの荒野をポクポクと歩いて行く。そして夜になると焚き火をしてあたたまり、彼の顔は闇の中で赤くうかびあがる。
この物語では、旅のスタートはオクラホマ州フォートスミス。主人公の少女マティ(ヘイリー・スタインフェルド)の父親がこの町で殺される。少女が住んでいたのはここから数十キロ離れたアーカンソー州のたぶん片田舎だ。少女は召使いに付き添われて汽車でこの町にやってきて、取引でお金を手に入れると馬を買い、保安官コグバーン(ジェフ・ブリッジス)を雇い、亡くなった父親の銃とコートを身につけて犯人を追う旅に出る。
フォートスミスと彼らが捜索に出たエリアはどうもこんなところのようだ(フォートスミスは北北東にある)。

ストリートビューで見ると目眩がするほど同じ景色がつづいている。沿道の景色は低木の疎林。ひたすらにこれだ(ちなみに撮影地はテキサスとニューメキシコ)。それでもベテランの保安官は迷いもせず犯人を捜してインディアン居留地に入り、寒々しい乾いた森をたどって旅をつづける。彼らにとって森はどんなふうに構造化されているんだろう。不思議な感覚だ。お話の中とはいえ、ふと立ち寄った小屋には悪漢が集結してきたり、それどころか旅の途中でぐうぜんに色々な人に会うのだ。
一見、未開の地にみえるオクラホマの山中は、みえない地図によってルートとポイントに満ちた「場所」になっている。もちろんそういう人々はいくらでもいた。日本の山岳地帯のマタギだって、中東の隊商だって、星を頼りに大航海する南太平洋の船乗りだって、わかりやすい道や目印がなくても広大な自然を自分の「場所」としてちゃんと把握している。アボリジニーは旅の地図が歌になっているという。サインがなければとても不安で山歩きなんかできず、それどころか都市のなかでもナビを見てiphoneGPSに頼るぼくから見ると、そうとう遠い世界になってしまってるけどね。
史実に近いのか、そんなイメージのファンタジーなのか、この映画でも彼らは道なき道を自在に旅する。そこでキーになるのが川だ。旅は川を渡るところから始まる。テキサスのレンジャー、ラビーフマット・デイモン)と二人だけで追跡の旅に出ようとしていたコグバーンを追って、マティは必死で川をわたる。馬も自分も首まで水没してわたるシーンを長々と見せるのだ。それが一つのイニシエーションのようになって、彼女もまたインディアン居留地という異界への旅の一員にむかえられる。途中で奇妙な死体や変人との出会いがあり「川に沿って行くと暖まれる小屋がある」と教えられる。そこはちょっとしたクライマックスの舞台になるのだ。そしてマティがついに父親のかたきにあうのもやはり川だ。マティはかたきのチェイニー(ジョシュ・ブローリン)にさらわれて無理矢理に川をわたらされる。あてのない旅は終わり、決闘のパートに入っていく。そんな風に、めりはりがないような延々とつづく土地も、そしてストーリーも、川によってくぎられ、みちびかれていく。『ノー・カントリー』でも二つの大事なシーンで川がだいじな存在になっていた。ただの背景じゃなく。主人公がギャングから必死で逃げ、猛犬に追われるシーン、それから重傷を追ってメキシコに逃れ、また帰ってくるあたりの一連のシーンでね。

もちろんこれは映画のごく一部で、何度も反すうできそうな味のある要素がいくらでもある。そもそも役者が全員妙な味があっていい。それから死体置場で眠るマティ、いびきのうるさい老婆に閉口しながら眠るマティ、中国人の店の倉庫でだらしなく眠るコグバーン、旅の中でガラガラ蛇をよけながら眠りにつく二人。そんな眠りのシーンもたびたび意味ありげに出てくる。食事のシーンがたいしてないのと対照的だ。いろんなアレンジで出て来るテーマ曲の聖歌、聖書の一説や旧約聖書にちなんだセリフ、濃厚な聖書の物語モチーフなどがキリスト教者にはそうとう違ったニュアンスをあたえるだろう。ラスト近く、星の下の最後の旅と馬の運命とかも。
この物語、主人公が少女だという時点でかなり変わった西部劇だろう。そこらの大人を言い負かすような頭を持ち、用心棒を雇う金もあるスーパーな子供なのだが、やはりお話は彼女の成長の物語にもなっている。父親の銃を持ち、父親の大きなコートを着て、亡き父親の腕の中から旅をはじめた彼女は、二人の大人の助けを借りて、時には自力で試練を越えて、使命を果たす。そしてあまりにも象徴的に蛇にかまれるのだ。なげやりだった老保安官は愛する女を守るようにあらゆる犠牲を払って彼女を医師のもとへ連れて行く。急速に物語的な「成熟」の要素を備えてしまった彼女の人生はある意味そこで終わってしまう。あとは余生になっているかのようだ。エピローグはなんともさびしげなエピソードになっている。
最後に(追記なんだけど)西部劇を現代化するときにぼくが意識するのは銃撃戦のあつかいだ。つまりリアルな戦闘、殺人として撮るかということ。『許されざる者』は途中までかなりリアルに撮っていた。それがテーマとも密接にかかわっていたからだろう。この映画ではどちらかといえば西部劇のお約束に合わせてそんなに深刻に撮っていない。ラビーフがカービンライフルで遠くの敵を狙うシーンなんかは狙撃の難しさみたいなのを表現してるみたいにも見えるが、伝統的なタメの演出で結果を見せていたりする。