告白 


<公式>
第一印象でいうと、表現のクオリティと脚本のそれのバランスがなんだか悪いなあというものだった。
表現のクオリティについては色んな批判があって「これは映画じゃない」式の批判も見かける。目まぐるしく変わる表現の意図も、演出上の意味もわからない、とかね。プロから見るとそういうところもあるのかもしれない。なんで画面のトーンを変えて、ハイスピードカメラで見せて、あるいはマンガ的早回しにする必要があるのか。もちろん僕にもわからない。でも、じゃあ日本映画でありがちな、エモーショナルなシーンでの長時間の顔のアップ切替え、みたいなのは意味があるのか。というか演出しているっていえるの?
この映画では、プロの女優ふたりのシーンはそれなりにオーソドックスに撮って、きちんと芝居を見せている。どっちかというとトリッキーなのは子供たちのシーン。自然に振る舞わせて、それをモンスターとして見せるのは演技では無理だったんだろう。カット割りやライティングや画面処理やでやっている部分はある。明るく演技させて、モンタージュ的に不吉なメッセージをはさむだけで「こいつら怖い」ということにしているシーンもある。それでいいんじゃないかと思う。全編にわたってテンションは持続している。
いっぽうストーリーは、<法に守られた犯罪者=強者>が<無力な一般市民=弱者>によって復讐されるという、そこだけ取ればよくある話。 しかし「少年法の壁」をテーマに「子供が大人に復讐されるのを見てカタルシスを得る」という転倒した構図になっている。プロットにはインパクトがあるし、復讐する女教師は、ありえないくらい徹底した存在になっているから描き切った感はある。演技も含めて松たか子が演じる森口のキャラクターはすごく面白い。殺人に関わったふたりの少年は、ていねいにその前後が描写され、観客は彼らがモンスターではなくて同情すべき面もある人間だと説得される。でもどうだろう。観客はこの二人の破滅を見て、ひりひりしたリアリティとともに少年の倫理的責任について考えるだろうか?
正直言って、そう感じるには、特に主演級の発明少年の設定は、あまりに物語の都合にあわせたものに見える。 少年は、幼い頃に科学者のキャリアをあきらめて主婦になった母に受入れられず、承認願望をくすぶらせたまま成長した。家を捨てて再び研究者になった母に認められ、母に自分を同一化することが彼のすべての(エキセントリックな)行動の動機となっている・・・これさすがに単純化しすぎじゃないだろうか。
だいたい、知能の高い少年が、社会的成功者の母に認められるために、反社会的な行動でそれを実現しようとするのか? 無意識の母への復讐という話なら分かる。結果的にそれが現実化してしまった・・・的オチだとすればね。でもちょっとその深読みは無理がある。しつこいくらいに、少年は母親を愛し、思慕していることが繰り返し描写されているのだ。動機を丁寧に説明しすぎて、終盤の描写はテレビドラマ的にレベルが下がっているくらいだ。でもその動機自体無理があるように思えて仕方がない。
ラスト、森口が心理戦からいきなりエージェントばりの特殊工作員になるあたりで、物語のフィクション性がまた一気にあがり、監督は「ここは寓話だからね」といいたいかのようにど派手な爆発シーンを入れる(ストーリー上の現実ではないと思うが)。最後の松たか子の顔演技のすごさで無理矢理納得させられてしまうけれど、どうなのよ、という部分が後半はかなり多い。結果、ほんらいあったかもしれない、観客自身にふりかかるようなリアリティが薄らいでしまった気がする。殺人にかかわったもう一人の少年のパートのほうが「おっ」というところがあった。
この映画で、本当に気持悪いのは「クラス」という漠然とした集団である。「少年法があるから罪をおかしても問われることはない」ことに自覚的なのは、殺人を犯していない生徒たちもおなじことだ。彼らは異端者たちを排除して、異端者たちが破滅するのを横目で見て、しかもそれを十分に楽しんだのだ。でも何の報いも受けていない。この映画が反道徳的だとしたらむしろそこだろう。
ひょっとすると監督が最も告発したかったのは、エキセントリックな犯罪者たちじゃなく、彼らかもしれない。クラスの生徒たちは、凡庸な人間たちという意味では観客にもっとも近い存在だ。そんな彼らが集団にまぎれて罪を犯していながら、何の自覚も反省もないモンスターだ、というメッセージだとしたら・・・大多数の観客にとって映画の後味が悪いのも当然だろう。