エッセンシャル・キリング


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当ブログではめずらしいロードショー中のレビュー。どう書けばいいのかな。
この映画、公式サイトだと「サバイバル」や「ノンストップアクション」というエキサイティングな言葉が出てくる。アフガンのゲリラ兵がアメリカ兵を殺し追われる身になる。確かにプロットだけ取ればそうだ。けれどハリウッド的なそれを期待していくとだいぶ違う。「逃げ切れるのか?生き延びられるのか?」的スリルは正直言ってあまりない。彼がアフガンの戦士だからといって、アフガン戦争の実態がドキュメンタリックに描かれるかというとそれも違う。いや序盤は多少その感じもあった。アメリカ軍の捕虜になって尋問と軽い拷問を受け、移送されるところまでは。しかし急に場面は雪の積もったヨーロッパの森になる。そこからはもう『アフガン』という要素はまったく無関係になり、ヴィンセント・ギャロが演ずる一人の男の無言のさまよいがはじまる。この映画はそうとう複雑な象徴劇だと思った方がいいだろう。

以下ネタバレありです---------------------------------------

監督は故郷ポーランドの森の中にも米軍基地(もしくはCIAの拠点)があって、そこから「アフガン捕虜が北欧の森へと脱走」というプロットを考えついたという。いちおうかすかに現実社会との接点はあるわけだ。でも監督は主人公がアフガニスタン人なのか、他国籍の義勇兵なのかはっきりさせたくない、彼が逃げた森がどこの国なのかも抽象的なほうがいい、ともいう。だから主人公もヒロインもセリフを喋らせなかったと。意図ははっきりしているわけだ。アフガン兵という設定の唯一の意味は彼がイスラム教徒だということにつきるだろう。監督はプロットを軸として、いくつもの象徴を映画の中に配している。おそらくはどの層のシンボリズムを読み取れるかで、映画の解釈も少しずつ変わるだろう。

1.言葉を持たない主人公は生き延びるために、米兵や傭兵、兵士がつれた猟犬や木こりなどを次々と殺す。それなりの倫理的な抵抗は見えるが、ためらわない。つまりessential killing=不可欠な殺しだ。しかしその報いとして必ず彼も傷を負う。じょじょに文明社会に近づくと、彼は人を殺すことをやめ、かわりに食料を奪うようになる。動物から野蛮な人間への変化だ。そして最後は彼を無条件に受入れた女性に、手当を受けて食事をもらう。初めて彼は罪を犯すことなく、人間として生ることを許されたのだ。しかしその直後、与えられた白馬の背中で彼は大量の血を吐き、その死を暗示したまま、ラストシーンになる。
2.彼がさまよう北部ヨーロッパの森は「キリスト教以前の文化」の象徴だ(本当は、元来あったオークなど広葉樹の森だと思うが、それらは長い間にほとんど切り倒されて、針葉樹の森に置きかわった)。ラテン発祥の文明からすれば、森は野蛮な非文明、非理性の象徴だった。民話の魔女や妖怪、悪魔のすみかになっていることでもおなじみだ。ヨーロッパ文明の発祥地でもあった砂漠をでて、彼は一旦森の中で獣になる。そして文明社会に出て人間になる。
3.彼の服装。最初はターバンを巻き民族服を着ていた彼は、米軍に捕らえられるとオレンジ色の囚人服を着せられる。脱走した彼は民兵を殺してその黒いジャケットを奪う。次に雪山仕様の米兵に追われた彼は、転落して水に落ちるが、死んだ兵士の白いジャケットを奪って、そこからは純白の格好で森をさまようことになる。しかし純白の服もやがて血に染まる。その格好で女に助けられた彼は、おだやかな茶色の服を与えられて去っていく。無理に解釈すれば、黒=男の罪、水中に落ちたことで象徴的に転生した彼は一旦無垢な獣となって白い格好になるが、やがて罪の刻印が純白の服にしみついていく・・・的な?
4.動物。この映画は動物がよく出てくる。中でも犬が意味ありげに使われる。森で彼を追う米兵は猟犬を放ち、彼は一匹の獣として犬を殺す。その後鹿との出会いがある。鹿は彼をまったく恐れない。後半ではなぜかボーダーコリーのような犬の群れがかれにまとわりつき、追うでもなくなんだか慕わしげに振る舞うのである。しかし彼は苦悩して叫び声をあげる。ここはなんだろう、同じ獣として鹿や犬に受入れられることの苦しみが逆にある、ということなんだろうか。ラスト、彼ははっきり人間として白馬に乗り(でも鞍はない)、しかしそのまま力つきる。

彼がイスラム教徒として物語にあらわれること。監督がどんな立場で彼を配置したのかは、はっきりとはわからない。イスラム教徒を自分たちの文化とは相容れない野蛮な存在として物語をはじめているのか。彼は最初に米軍に攻撃されて聴覚がマヒし、言語を失った。前キリスト文明的な森の世界を経て、森で赤い実を食べると、それがきっかけのように彼は文明の世界へ近づく。たどりついた村はキリスト教の世界だ。あまりにもわかりやすく「きよしこの夜」のようなクリスマスソングが流れている。彼を無条件に助けるヒロインに聖母を重ねる人は多いはずだし、ギャロは、右の胸というか脇腹に傷を負っていて、聖セバスチャンを思い起こさせる。動物の論理で生きるために罪を犯し続けてきた彼が、キリスト教文化に同化した瞬間、その罪をあがなうという物語なんだろうか。しかし、途中でフラッシュバックのように、おそらく戦場に出る前の彼が教化されるシーンや、なにより家族らしき女性や子供との人間的なシーンもインサートされるのだ。正直にいうと、僕にはまだこの監督の物語は読み解けていない。