母なる証明


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殺人の追憶』に似た空気をかんじるクライムサスペンス。韓国の田舎町が舞台で、その閉塞感やどこか救いのない感じがただようところも共通だ。ヒットした『グエムル』はちょっとしっちゃかめっちゃかな部分もあったが、この作品は全体に抑制のきいた演出が最後までつづく。

物語は謎解きサスペンスを軸に進む。主人公の母(キム・ヘジャ)は一人で知能障害の息子(ウォン・ビン)をずっと育ててきた。その息子が殺人容疑で拘置所に入れられる。彼の無実を証明するために、母は地域で一番の弁護士にすがり、息子の悪友が犯人じゃないかと警察にタレこみ、やがて自分が探偵みたいになって事件の真相をさぐる。その過程で、自分や町のダークな一面がいやおうなしに掘り起こされる。ついには救いもカタルシスもない微妙すぎる結末へと至り、ラストはもはやストーリーラインを超えて、人間そのものの表現となって、おおきな円環が閉じられる。

この監督、対象との独特の距離感というか、外から観察したような視線が特徴だ。これって映画監督ならあたりまえのようだけど、意外とそうでもない。この距離感がある作品は、対象をどこか戯画化して描く傾向がある。離れて見れば、深刻な立場にいる人間もどこか滑稽に見える。たぶん監督の笑いへの好みもあるんだろう。この映画、ストーリーはずっしりと重いはずなのに、見方によっては全編ちょっと笑えないこともないくらいの描写なのだ。そんな視線だから何かを特に美化することもしない。キャラクターも、描かれている価値観も、映される風景もだ。

主要なキャラクターから端役まで、無批判に描かれる人物はひとりもいなくて、だれも暗部やくすんだ部分を持った存在としてあらわれる。主人公の母の愛はエゴイスティックな部分を濃厚に匂わせつつ描かれるし、ピュアなはずの息子は、ピュアさと背中合わせの動物的な抑制のなさとセットで描かれ、イノセントな存在には見えない。でもだからといって、誰かが否定されているわけでもない。すべては相対的な存在になる。だから観客は単純にキャラクターたちを色分けできず、ちゅうぶらりんの状態で「観察」し、価値判断することをもとめられる。なんといっても冒頭の草原のダンスからそうなのだ。祝祭的なのか、悲劇的なのか、牧歌的なのか、じゃあこの異様な緊張感はなんだ。的な。ファーストシーンから、決定的に観客はちゅうぶらりんになる。

映される風景も全編くすんで、一般的な意味では美しくない。緑の多い田舎町が舞台なのに、イメージショットみたいな自然の風景は一度も出てこない。「草原のダンス」だってなんともさむざむしい初冬の景色。室内シーンも、どこも入念に汚しがかけられて、古び、崩れかかり、薄汚れる。『殺人の追憶』とおなじで夜のシーンも多い。都市のはなやかな夜景なんてここにはなく、じっとりと暗い夜だ。人物の衣装もすべて地味でダサいものばかり。金持ち役もじつにぱっとしない。とにかく感じるのは「虚勢をはらない」描写なのだ。必要以上によく見せようとするものがなにもない。ダーティー・リアリズムともちがうんだけど(ってかそもそも意味違うか?)、そのせいでどこか骨太感がある。

この映画であらためて思うのは、監督の「地形」センスのたしかさだ。『殺人の追憶』では殺人現場になる暗い切通しみたいな道路が舞台として効いていたし、『グエムル』では大きな都市河川と、人口の地形といえる巨大土木施設が最高の舞台になった。この映画では、各地のいい風景をつないだ、起伏の多い架空の町が舞台になる。最初の草原は(さむざむしいとはいえ)微妙な地形の起伏が美しいし、そのあとのゴルフ場での起伏を生かして見切るシーン、葬式の前の斜面墓地のシーン、息子の悪友が住む小屋の周りの渓谷っぽい地形。殺人現場の丘の上から見下ろす町。町のメインストリートのシーンもカメラを地面すれすれに置いてわずかな起伏を強調して見せる。そういう空間センスのおかげで、特別なセットや風景は何もないのに画面にダイナミズムがある。ぎゃくにその地形の表層でうごめく人間が蟲化して卑小に見える効果もひょっとするとあるかもしれない。

映画は、大きな繰り返し、ちいさな繰り返しが何重にも絡んで、複雑な音楽みたいな構成だ。裁断機で草を切るシーン、「バカ」という言葉への息子の激高、母がヤミで営業している鍼灸治療とその道具が、繰り返しのなかでだんだんと前にでてくるようになり、やがて・・・というリズム。そして全体をつつむ奇妙なおばさんダンスのモチーフ。これらがただのモチーフだったり、ストーリーの重要なキーだったりと、すごく緊密に構成されている。