コングレス未来学会議


<公式>
ストーリー:色々あって売れなくなったかつての人気女優、ロビン・ライト。古い付き合いのエージェント(ハーヴェイ・カイテル)が持ってきたのは映画会社からの残酷なオファーだった。彼女のすべてを3Dスキャンしてモデル化し、そのバーチャルな女優を会社が所有するというのだ。本物の彼女は演技する権利を失う。契約は20年。さいしょは相手にしなかったものの、病気の息子がいる彼女は大金になるオファーを受け入れた。そして20年後、彼女はある会議に呼ばれる。映画会社が、飲めば仮想世界に入り込み、好きなキャラクターになれる<飲む映画>を開発したというのだ。砂漠の中のホテルはすでにその世界になっていた。まねかれた彼女に、会社はつぎのオファーを出す.....

イスラエル人監督 アリ・フォルマンの作品。前作は『戦場でワルツを』だ。なかなか似た作品がないこのアニメ、わりと好きだ。「どこをリアルさの足がかりにするか」のツボが僕の好みだったんだろう。たとえば戦車がでてくるシーンがある。描き込みがすごいわけじゃないが、数十トンの重量車が、しかも戦闘状態で街中を走るとどうなるかみたいなありかたがリアルだった。同じ戦車でも『ガールズ&パンツァー』の、ディティールを忠実にモデリングした、っていう意味でリアルなCGとくらべると....まぁくらべるのもアレか。あっちは違う意味で完全に仮想世界。一見難解でシュールなフォルマンの映画はむしろ現実世界を忠実に描いていた。

で、今回の映画は、現実パートは実写にまかせた。アニメのパートは薬剤によって入りこんだ仮想世界を見せるのにつかわれる。構成としてはすごく分かりやすい。仮想世界というか幻覚世界に近い。アメリカのアニメの古典、マックス・フライシャー の作風を使って古今のエンターテイナーのキャラクターを登場させつつ、監督もインタビューで言ってるように故今敏作品『パプリカ』の夢+映画的記憶の群舞シーン的な雰囲気も入っている。こういうのの源流はマンガの『リトル・ニモ』になるのかね。漫画的な線でシュールな夢幻的世界を見せるという。ぼく自身の思い出だと、杉浦茂のマンガを見た時の記憶によく似ている。彼のマンガも、キャラクターの目といい、理由のない不思議クリーチャーといい、フライシャーの影響はじゅうぶんあるんだろう。
さて、本作のヒロインはおばあさん。67歳の美人女優ロビンだ。実写パートでは現実通りの40代後半の彼女は、その時点で「むかしはスターだったけれどさすがにこの歳じゃ仕事はない」役。そうはいっても十分美女だ。アニメでは白髪の老女。でも美人女優のオーラがあるうえに、ラブシーンまでこなし、しかもそこだけはずるく若い身体に描かれてやけにセクシーだ。ま、一瞬だけどね。でもそこもアリなのだ。仮想世界のなかの自己イメージっていう設定だからね。
人物の動きは役者に動いてもらった映像をもとにアニメーターが描く。映像をそのままトレースするロトスコープじゃないからデフォルメははいっている。世界各国で分業してえらく面倒な思いをした(各国のアニメーターによって同じキャラでも微妙に雰囲気が違ったり)らしいアニメパートの映像が、もちろん本作の売りだ。時間をかけた映画作品らしく、画面のあっちこっちでいろんな物がうごめいていてあきない。

で、けっきょく1〜2回見ただけで、この仮想世界の設定がどうなってたのか、いまひとつ理解できなかった。<飲む映画>って個人的な幻覚体験みたいな気がするけれど、ここではいぜんの「セカンド・ライフ」みたいな仮想世界のプラットフォームがあるわけだ。みんなそこにエントリーする。映画というなら、ストーリー(=経験)もあたえられるはずだけど、なんかみんな自由にやってるようにも見える。意識だけのはずの仮想世界と肉体が存在する現実世界の関係もよくわからない。『マトリックス』みたいに現実の肉体はほとんど機能していないほうがわかりやすいよね。本作では、現実世界の肉体もちゃんと意識があって、そっちはそっちでふつうに暮らしているふうなのだ。どっちの世界がもう片方を生かしているの?よくわからない。現実世界のうさばらしに、オンラインゲームに耽溺するみたいにひとときあっちの世界ですごす、というんじゃべつに新しくもないしなあ。仮想世界でうまくやると、現実世界で飯が食えるのか………..
仮想世界はファンシーで明るくて、みんななりたい自分になってるからもちろんハッピーだ(人種もジェンダーも越えた、理想郷じゃないの)。でも実際の肉体はファンシーでも明るくもない現実に取り残されている。ロビンも我にかえるみたいに現実の世界に戻ろうとする。彼女が仮想世界から出るときの映像は、いえいいませんけどね。わかりやすすぎるくらい、ストレートにそこは描いている。
お話の芯に、最初にロビンが自分のスキャンに同意した理由、進行性の病気をもった息子への変わらない思いがある。ハーヴェイ・カイテルや(なんだか目がくりくりしすぎていて変だったが)ポール・ジアマッティ(やっぱり『サイドウェイ』の印象強い!)たち,滋味あふれる役者たちが彼女の思いをさりげなく支える。20年経っても、そこからまた時間が過ぎても、息子への思いはずっと彼女の生きる動機なのだ。実在の俳優のデジタルデータ化はもう普通の技術だそうだけど、さっき書いたみたいに仮想と現実の関係がなんだかはっきりしない。だからというんじゃないだろうけど、何十年変わらない母の子供への思い、というクラシックで普遍的そのもののテーマを真ん中にもってきたことで、いちおうお話はそれなりに飲込みやすくなっている。

オンリーゴッド


<予告編>
ストーリー:バンコク拠点のドラッグディーラー、ジュリアン(ライアン・ゴズリング)はムエタイのプロモーターを表稼業でやっている。商売のパートナーでもある兄がある晩とつぜん娼婦を惨殺した。逃げもしない彼は警察の手に落ちる。現場に派遣された元刑事のチャンは娼婦の父を見つけて現場に呼び出し、棍棒を渡す。しばらくたってから復讐を終えた父をつれだして右手を切り落とした。数日後、ジュリアンの母、クリスタルがバンコクに現れる。息子の葬式をあげるためだが、麻薬取引の元締めでもあるママは、地元のアンダーワールドにいるアメリカ人に話をつけて、息子を殺した男と、殺させたチャンの暗殺を依頼する。母はある過去の出来事があってジュリアンより兄を愛していた。ママに叱られた無口なジュリアンも、また兄の敵をおわなくてはいけない。でもチャンはただの引退した刑事じゃなかった。

ドライブ』のニコラ・ワインディング・レフン監督×ライアン・ゴズリング主演。2013年。ときどき製作される<オリエンタル+クライム>ものだ。欧米が東洋の武術家たちを「発見」してから持っている、彼らを神秘化して内面のわからない殺人者として見る視線だ。アジアの繁華街の<カオス>は魔窟となり、味付けとしてまぶされる。

この「内面がわからない」とこがキモで、『ブラック・レイン』の松田優作みたいにモンスターとして扱える。本作の敵役チャンもまさにそれだ。暴力にもためらいがないから倫理観のおきばが見えない。ただし東洋文化への一定のリスペクトを見せて、ただの無法者じゃなくなんかのルールに基づいてるんだな、と思わせる。剣や武術の達人で、動きも優雅だ。
いっぽう主人公ジュリアンも簡単には感情移入させないキャラクターだ。第一にとにかく無口。全編で17行分しかセリフがない。無口だけど行動で示すのかと思うと、あまり能動的でもないのだ。話のなかでも「なんだかわからない不気味なヤツ」に見られている。観客から見ても似たようなものだ。彼女らしいタイ美女といっしょにいるけど、強面ママの前だと口の悪いママが彼女を罵倒してもひとことも返せない。そのくせ見た目に似合わず急に暴力的だ。

映画の雰囲気はデビッド・リンチ風だけど、ラストで「ホドロフスキーにささぐ」となっている。監督がアレハンドロ・ホドロフスキーのファンなのは『ホドロフスキーのデューン』を見るとよく分かる。ただ本作の捧げ具合はいまひとつ分からなかった。捧げるといってもいろいろだ。作者の個人的な思いで親族とか友人に、っていう場合もあるし、亡くなった関係者に、ってときもある。だけど作家が存命中の作家に捧げるとしたら、ふつうはなにか作品の元となるくらいのインスピレーションを受けてつくった作品だからだろう。本作はよくいうオマージュ要素はあまり感じなかった。いやどうだかなぁ、ホドロフスキー、そこそこ思い出せるのって『ホーリーマウンテン』『サンタ・サングレ』くらいだし。
ホドロフスキーには、やや「天然」要素を感じる。なにかメタな視線込みで狙った表現とかをするタイプじゃなく、それがおもしろければそのまま入れこんで、結果的にシュールに見えたりする。レフンはそのあたりはきっちり見えてるタイプっぽく、作家としての色もけっこう違うような気はする。

ダークシティ


<予告編>
ストーリー:ふと目がさめると記憶のない殺人者になっていた主人公。会う人ごとに謎めいたことをいうばかりの夜の街を、なにかの組織に追われながらさまよう。妻だったはずの女はクラブシンガーになっている。主人公には特殊な能力があった。ちらちらと見せられるあるキーワードとは。そんなこんなでレトロSF調の物語はつづく.....

なんかあんまり残らなかったなあ。1998年公開だ。その時代に見たらどうだったか...... ぱっと一口で言うと、夜の『トゥルーマンショー』という感じがした。主人公が世界全体だと思っていたそこは、誰かにコントロールされて、自分の意識も制御されていた限りある空間、というようなね。物語上はとうぜん、かれはそこから脱出しようとするわけだ。

マトリックス』とほぼ同時代で、なんとなく道具立も似てる気がしなくもない。『マトリックス』が完全に仮想世界だったのと比べると、この街にはもう少し実体がある。トゥルーマンショーでは世界をコントロールしてたのはプロデューサーみたいな人だったけど、本作では宇宙人だ。夜が明けない街のイメージはいろんな作品でおなじみだ。わりと最近見たところでは『嗤う分身』がそうだった。ところで、この手の夜の街描写って、じつによくエドワード・ホッパーの「NightHawks」のイメージを借用するよね。SF設定のなかでレトロな(1930-1940年代風な、っていうことなのかな)記号的ファッションの男女がうごくのもわりと見かける。『ガタカ』だってそれやってた。あの時代のスタイルって、アメリカ人から見て、どこか永遠の格好よさがあるのかね。
クライマックスでCGの光が飛び交う超能力対決になったところで既視感が頂点に達した。おまえはスーパーサイヤ人かと。ネタバレさけるが、ラストシーンのビジョンはよかったかな。