ちょっとソフトな父と子もの

父と子、とくに息子の映画。アメリカの映画ってなぜかこの物語がすごく多い。べつに父子関係を持ってこなくてもよさそうな『チャーリーとチョコレート工場』でも『曇りときどきミートボール』でも父による息子の承認みたいな話が泣かせどころになってたりする。基本、母子の物語ばかりのいまの日本から見てると「やっぱり文化がちがうね」といいたくなる。ディザスター系SFでも主人公は父としてとにかく頑張る。『ミスト』『宇宙戦争』『アルマゲドン』。で、今回見た2本はどっちも離婚された父。それにこころやさしい(たぶん)息子のお話です。

イカとクジラ


<予告編>
ストーリー:文学者の父(ジェフ・ダニエルズ)、父の影響で最近小説を書くようになった母(ローラ・リニー)。高校生の兄。小学生(たぶん!)の弟。親たちが離婚することになって、父は家を出て地下鉄で2駅先に引っ越す。子どもたちは交代であずかる約束だ。でもどっちの親もマイペース。子供たちを愛しているけれど、子供たちのためだけに生きるタイプじゃない。親の都合で二つの家を行ったり来たりしなくてはいけなくなった兄弟は微妙にバランスをくずして....
こっちの父はいたい。というより絵に描いたようなダメ親父だ。
母よりはずっと高名な文学者なのに、作品が難解過ぎるせいか最近はちっとも売れず、出版もなかなかできない。大学で教えてなんとか食べているけれど、あきらかにお金がない。いまではあれやこれやを手厳しく批評、というか難癖をつけるだけの親父になってしまった。しかも妻は、いやに性的にアクティブで、前から手近な誰それと浮気していたうえに、別れたあとはさらに欲望に忠実になり、しかも書いた小説がいきなり成功を収めて、かろやかに元夫を追い抜いていく。
この話、監督の自伝的ストーリーだそうだけど、母や父のこの感じはどうなのか。アメリカ映画の父もののなかで、こういう感じのぐだぐだな父像はちょっとめずらしい。だいたい乗り越える対象だから、塀みたいにそびえるんだけどね。むしろ日本のドラマのほうがなじみがあるような気がする。ちなみに父もこうやって書くと「去勢された存在」みたいだけど、ぜんぜん枯れてはいなくて、息子に恋の説教なぞかましたあげく、教え子の女子大生を自宅にいそうろうさせて息子の憧れをかきたてておいて、自分ができてしまう。

こんな両親の元で二人の息子はとりあえず性的にゆがむ。兄は女に手を出せなくなって彼女がいるのに妙なぐあいになり、弟はちょい異常行動にでるようになる。小学生にしては早い気がするんだけど…….こんなもん? 監督にとっての「自分」は兄のほうだ。そして兄はダメ親父の父のことが好きだ。尊敬もしている。ここで父が立派だったらまじめくさって、面白くもない話になる。ダメだからいいのだ。父の目線にたつと浮気はするわ離婚後すぐに男をつれこむわの母はとうぜん嫌悪の対象だ。だから母が声をかけても彼はこたえたくない。でもけっきょくのところ彼は母への思いがすごく強くて、捨てられる不安にかられているのだ。弟はもっとすなおに母をしたっていて、母とセックスがむすびつくことにも拒否感がない。
長男役は『ソーシャル・ネットワーク』で孤独なギーク(つまりFacebookマーク・ザッカーバーグ)を演じたジェシー・アイゼンバーグ。父だけじゃなく、母も弟も、ほめられた人はひとりもいないんだけど、全体としては「それでも……」とほわっとした感じになる。舞台はブルックリンの公園近くのクラシックな住宅街。 近くにあるプロスペクトパークはセントラルパークと同じオルムステッドという人が設計した名作だ。このオルムステッドという人は、近代の造園デザインを勉強すると最初に出てくる偉人で、だからなんだといわれるとあれだけど、エリア全体にわりと文化的で意識高い系のファミリーとかが多そうな場所だ
制作にウェス・アンダーソンがくわわっている。いつもマイペースな父や母に振り回される息子の物語を描くウェスらしい。監督のノア・バウムバックは最初ウェスに演出をまかせたかったそうだけど、ウェスは君の物語なんだから君が監督したほうがいいと説得したそうだ。

サンキューフォー・スモーキング


<公式>
ストーリー:タバコ業界のスポークスマン、ニック(アーロン・エッカート)はディベートのエキスパート。かれが呼ばれるシーンはほとんどアウェイだけど、論点をずらし、わざと相手を怒らせ、ときには文字通り相手を煙に巻いて、どんな不利な場面でも「タバコは害だ」という決定的なところに落とし込ませない。ボスはそんな彼を高くかっていてる。でも家庭は崩壊して、離婚した妻との息子とは決まった曜日にしかあえなくなっている。銃器業界やアルコール業界のスポークスパーソンとの飲み会がかれの息抜きだ。あるとき巨乳の美人記者がかれにアプローチしてきた。妙に意気投合した2人はアパートの部屋になだれ込む。ところがそれはただのおいしい出会いじゃなかったのだ……..
ジェイソン・ライトマンの2005年の作品。『マイレージ・マイライフ』より前だ。そして『マイレージ』とそっくりの映画だ。よっぽどこのテーマがささったんだろう。あるいは少し軽めのこの映画ではどこか言い切れていないと思って『マイレージ』を撮ったのかもしれない。
この映画は軽い。『マイレージ』の主人公、ライアンと同じように悩んでも、自分の存在が揺らぐようなことにはならないし、エピソードもリアリスティックにしすぎずに笑って流せる程度にしている。煙草の「クールなイメージ」の盛上げのためにハリウッドをエンドースしようとしたり、敵対的な議員とバトルしたり、訴訟問題を片付けたり、スクープ記事にやられかけたり、いろいろあるんだけど重くしない。いいテンポのコメディで最後まで行く。
なにより彼には息子という救いがいる。離婚した妻と交替であずかっているこの息子がどういうわけか全面的にかれを肯定して、慕ってくれるのだ。しごとにまでついてくる。親をならってへりくつ系ディベートのスキルまで磨きあげる。倫理的に微妙な立場の(だからこそ面白い)ニックを、一番大事な人間が全肯定してくれれば話は楽だ。彼は自分の存在を疑う必要もない。そこが『マイレージ』や『ヤング≒アダルト』とちがって楽に見られるところでもあるし、すっと流れて行ってしまうところでもある。

それにしても、ライトマンのこの3作、主人公はいつも、はたから見ると「いいのかそれで!?」というポイントに満ちている。しゃきしゃきとやってるんだけど、なんだか足元にぽっかり空洞があるみたいな存在だ。主人公は物語上、ぽっかりあいた穴の暗闇をちら見することになる。でも、ある種の映画みたいに、その闇を通り抜けてわかりやすく主人公が成長したり、生まれ変わったりというところへはけっして行かないのがライトマン流だ。主人公は自分の、いいのかそれで的ライフスタイルに「いいんだよそれでも」という感じで不思議に確信をふかめて再出発するのだ。これがちょっと面白いところで、なんというか、わかりやすい正しさなんかより、それぞれがそれぞれに築いたスタイルのほうが面白いじゃん、という立ち位置なのかもしれない。そういうタイプのやさしさがライトマンにはある。