映画を撮れないことの映画もある

映画を撮ることの映画は面白いのが多い。
むかしから名作はあるけど、当ブログでいえば『僕のミライに逆回転』『ライフ・アクアティック』がそうだし『桐島、部活やめるってよ』も映画づくりがキモだ。なんだろうね。内幕モノの面白さもあるし.....よく考えれば当たり前かなぁ。彼らが一番好きで、一番大事なものについて描いているんだから。
さてこの2本も映画を撮ることの映画だ。ただし。この2本、映画はどちらも完成しない。一つはフィクション、もう一つはノンフィクションだ。

ことの次第


<予告編>
ヴェンダース、1981年の作品。
ストーリー:アメリカのプロデューサーに雇われたドイツ人監督がポルトガルロケで古いSFのリメイクを撮ろうとする。カメラマンはハリウッドのベテラン(サミュエル・フラー)だ。ところがすぐにフィルムがもうないことがわかる。プロデューサーと連絡がつかないのだ。しかたなく撮影隊はホテルで休みにはいる。キャストやスタッフの不安と不満が限界に近づいて、監督はLAに飛んでプロデューサーと直接話すことにする.....
前半は群像スケッチ風だ。撮影隊がそもそもあまり現実的じゃない気がする。だってSFを撮るのに全部で10人ちょっとしかいない。そのうち半分くらいは役者で、2人は子役の少女だ。ゲリラっぽい撮影ならともかく、できるもんなのかねそれで?
仕事がなくなった人々はホテルの部屋で絵を描いたり、ヴァイオリンの練習したり、風呂に浸かったり、SEXしたりと思いおもいに時間を過ごす。海岸にめんしたホテルはほとんど廃墟で、他の客も従業員もうつらない。役者を演じる役者とスタッフを演じる役者。すべてはあいまいだ。監督サミュエル・フラーが演じるベテランのカメラマンが撮影隊のおもしめいた存在だけど、彼にもLAから悪い知らせが入り、一足先に現場からいなくなる。そんな停滞した空気の中で確固たるストーリーにならないドラマの断片が泡のようにあらわれては消えていく。『都会のアリス』も『パリ・テキサス』もそうだけど、目的を失った人の停滞した時間を描くのがヴェンダースはすきだ。

監督がLAに着くと、一転して、チャンドラーからお手軽に借りてきたみたいな「消えた男のあしあとを追う」物語に変わる。こういうストーリーの型どおり、探索者には繰り返し警告がつげられる。やっと男を見つけた主人公が受けとる報酬は、古い知り合いだった彼との長い対話だ。
監督は撮影現場でスタッフを前にしてスピーチをしていた。「物語は物語の中にしかない、現実の世界はそんなものなしでも進んでいく」プロデューサーともそんな話をする。プロデューサーはもちろん映画がヒットしないと困るからキャッチーなストーリーが欲しい。でも物語は映画をしばって生命を奪ってしまう、と監督はいう。彼は物語に従属した映画を撮りたくないのだ。そこに実在の人がいれば映画的世界は生まれてくるはずだとね。物語と死について話す監督に、プロデューサーはずらしてかえす。「死は恋愛のつぎにいいテーマだ」
それにしてもヴェンダースはあからさまなくらい直截に自分の考えをセリフにのせるときがあるね。30年キャリアを積んだあとの『パレルモ・シューティング』でもそうだった。でもけっきょく、いまでも彼の代表作といわれる『パリ・テキサス』は、このうえなく抒情的な物語が映画の魅力のひとつの柱なのは間違いない。それにドキュメンタリーであるはずの『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』でも、「老いたキューバ人ミュージシャンたちがずっと抱いていたアメリカへのステージへの憧れ」という、どことなく監督が編み出したような物語が上にかぶせられていた。
この映画のなかにもどうしようもなく物語はある。プロデューサーがいう恋愛はないけれど、死はある。物語としてね。

ロスト・イン・ラ・マンチャ


<予告編>
こちらは撮影延期や中止話がやたらと多いテリー・ギリアム師のドキュメンタリー。僕は彼の『ラスベガスをぶっとばせ』とか『ローズ・イン・タイドランド』とか大好きだ。逸脱していくものへのかぎりない愛情と共感に満ちている。でもものによってはひたすらに過剰で、締まりがないように感じる時もある。そんな彼が逸脱のシンボルとして愛するドン・キホーテ、彼を主人公にした映画が構想10年でとうとう撮影できることになった。監督はもとの話をひねって、サンチョ・パンサのかわりにジョニー・デップが演じる現代の男をはめてみる。恋人役にヴァネッサ・パラディを配置して、つまり売るための押さえもいちおうされてるのだ。
映画はアメリカでは資金が集まらず、ヨーロッパ各国の出資になる。そうなるとハリウッドなみの大作は無理だ、と関係者たちはいう。はじめから資金難での撮影だ。それでも撮影準備で思いのままにイマジネーションを拡げている監督は楽しそうだ。彼の頭の中の妄想はスタッフたちによって少しずつ物になっていく。
ところが撮影初日が迫るとトラブルがはじまる。主演のジャン・ロシュフォールが不調になって現場に来ない、やっと来て撮影がはじまるといきなりの超豪雨。信じられないくらいに降り、避難させた機材までが流されていく。たちまちセットも機材も泥だらけになって、水がひいてもすぐには撮影再開は無理だ。しかも乾いた大地は雨をたっぷりと吸いこみ、がらっと色が変わって初日と別の場所みたいになってしまう。
間抜けなことに撮影地は軍の練習場のとなりで、ジェット戦闘機のカン高い轟音が1日中まったく途切れない。とどめは主演のロシュフォールの体調不良が悪化して撮影どころじやなくなり、パリで入院しまうのだ。しまいに笑えてくる悪夢の連続だ。でもギリアムは笑わない。

じつはこの映画を見ているとちょっとテリーどうなんだと思わずにいられんのだ。たしかにスタッフたちがいうみたいに「信じられないような不運の連続」なんだろうきっと。構想10年の撮影現場がそんなことになれば監督泣けてくるのも無理ない。でも、真面目な助監督がこの状況でもなんとかしようと監督に進言しても、「これじゃぜんぜんダメだ」「この状況じゃ何かしたってムダだ」「どうせ別のトラブルがおこるんだ」「あぁもう手がない.....」このネガティブなノリ。いいのか大将が。ひょっとしてギリアムの現場で中止や延び延びが多いのはこのネガティブ思考が原因なんじゃないのか?と思うほどだ。勉強になるねー。現場のリーダーはガマンしなきゃいけないんだろうね、そういうこと言いたくなっても。
結局、ロシュフォールはすぐに治って乗馬ができる可能性がまったくないことがわかり、撮影続行は不可能に。収拾専門のプロがやってくる。映画は彼らの手にゆだねられて、最高の仕事とおもちゃを取り上げられた監督は、街を見下ろす部屋で、はだしで横たわる。