毛皮のヴィーナス


<公式>
ストーリー:マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』を舞台化する脚本・演出家。主演女優オーディションの終わりに1人の女優が駆け込んできて、帰ろうとしていた演出家はしぶしぶつき合うことにする。なんだか無遠慮で品がない女優は、舞台に立つと一変し、男優のかわりに立った演出家を圧倒する。『毛皮を着たヴィーナス』の芝居がはじまった。役になりきったような彼女のいうままに、ひざまずき、衣装を変えさせられ、夜の約束をキャンセルさせられ、演出家は次第に支配されていく………
本作は有名な古典文学をネタにひとひねりした、デヴィッド・アイヴスの舞台の映像化だ。ポランスキーの『おとなのけんか』(これ好き!)につづく舞台もの。原作はサド侯爵とならんで永遠に名前をのこすことになったマゾッホ氏。文学だけじゃなく、本人がまさに作品を地でいく人物で、かれが生きているあいだに、すでに精神分析家によって「マゾヒズム」という名前ができていたそうだから、名付けられるのをまっていたある性向をはじめて克明に描いてみせたひとなんだろう。原作のストーリーはこうだ。
―主人公セヴェーリンは保養地で出会った美しい未亡人ワンダに理想像ヴィーナスを見いだして、彼女にたのみごとをする。毛皮を着て自分を縛り、鞭でいたぶってくれというのだ。そっちの趣味はないワンダは彼への思いからたのみを聞く。いつのまにか彼女の嗜虐は本格的なものになり、セヴェーリンと契約書を交わすことになる。奴隷と主人の契約だ。奴隷になった男をつれてフィレンツェに移ったワンダはギリシア人の男とつきあい、セヴェーリンに見せつけるようになる……….
ムチと毛皮。それ以外にもブーツだの縛りだの今のSMのメインメニューはすでにでてきているようだ。だからか、『毛皮を着たヴィーナス』モノはわりあいよく似たイメージで表現される。たとえば下の3つ、アイヴスの舞台のポスターだ。基本、レザーと足だ。毛皮じゃないのか。3つ目だけが、原作をふまえている。愛の女神だったアフロディーテと「女王様」、2面性なのか変身なのか、わかりやすい絵解きだ。

これも。中央は1969年のイタリア映画『毛皮のヴィーナス』のポスター。原作とすこしはなれたエロティックスリラー的な話らしい。NYのバンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビューアルバムにも『毛皮のヴィーナス』という曲がある。歌詞のなかにセヴェーリンの名前がでてくるから、もろにこの作品を歌ったものだろう。レザーブーツとか毛皮とか奴隷とかムチとか、歌詞はわかりやすい記号にみちている。

それからイタリアの有名な漫画家、グイド・クレパックス版『毛皮を着たヴィーナス』。

そしてそして、やっと今回の映画のヴィジュアル。いままでのにくらべると、観客のステレオタイプに沿いながらもすこしテイストを変えている気がする。メガネを踏んでいるとこなんてわかりやすい。といいたいとこだけど、映画をみると「なんでメガネ?」と思わないでもない。ウディ・アレンの作品なら似合いそうだ。

さてさて、映画。ひとつちがうのは、おおもとの原作では若いカップルなのが、ここでは熟年の2人になっている。原作はいわゆる調教ものでもある。ノーマルだった若い女が男の欲望のままに変わっていくのだ。かたちはちがうけれど、ピュグマリオンもの(こことかここ参照)の一種といえなくもない。虐めてもらうのもあくまで男の主導だ。
でも本作の女優は最初から演出家を圧倒する貫禄があり、かたち上は男に従うことはあっても(ま、オーディションでもあるし)男の手のうちにおさまるような相手じゃない。しょせん男性原理の話じゃないかとするどく突っ込み、ところどころで男をぎょっとさせる力や理解できない裏のありそうななにかを見せて、とにかく終始男を支配する。
原作どおり、目をつけた女を自分が望むように仕込めるつもりでいた演出家は、まったく逆に自分が誘導されてうちなる思いや欲望をさらけ出させられて、しまいには女装に変わる。その逆転に爽快感をおぼえるひともいるだろう。でもなんで女装なんだろう。舞台劇の展開がそうなのか知らないけれど、『テナント』での監督自身の女装を思い出さずにいられない。おなじように女性の記号だけをまとわされて、女性の美しさはない、こっけいな中年男の女装だ。

テナント


<予告編>
ストーリー:パリのアパートメントに入居を申し込む若い男がいた。愛想がよくてそこそこお金も持っている。部屋の前の住人は若い女。彼女は部屋の窓から飛び降りて重傷だという。けっきょく彼女は死に、男ははれて部屋の住人になる。でも隣人たちは全員どこか不吉な雰囲気で、ちょっとした騒音にも大事のように騒ぎたてる。どうも死んだ女は隣人たちのいやがらせで自殺に追い込まれたようなのだ。知らず知らずのうちに彼女をトレースさせられていると感じる男は危機感をつのらせる.....

この映画のなんともいえないところは、「病んでる」以外のなにものでもない主人公を監督自身が演じてるというところだろう。作者と、作品の病みっぷりの距離感がつかめないのだ。これだけこういうタイプを作り続けるんだから当然監督には資質があるんだろうけど、ある種の観察として、おかしくなっていく主人公を突き放して見てるのか、もっと入り込んでしまってるのか.....
本作とあわせてポランスキーの「アパート3部作」といわれる『反撥』と『ローズマリーの赤ちゃん』。『反撥』は性恐怖症の若い女性が妄想をふくらませていって破裂する話だった。ウサギの姿煮みたいな料理がやがて腐敗して死んだ胎児じみてくる気持ち悪さと、壁から無数の手が出てきてうごめく妄想シーンがキてたね。『ローズマリー』は、妊娠の不安と、自分たちの空間とプライバシーが不気味な隣人に侵入される気持ち悪さと悪魔信仰のオカルティックなネタが同居していた。
本作でも主人公の妄想、隣人たちの気持ち悪さ、描かれるのはほぼその2点だ。『ローズマリー』と似ているのは、老人に対する嫌悪感みたいなものが濃厚に香るところだ。老人というべきか、若い主人公にとっての大人というべきか、かれらは不吉で、なにを考えているのか分からず、強迫的だ。ふつうのおじさんおばさんとかおばあさんが怪物的になって迫ってくるのだ。

演出はしょうしょう大げさに感じる。ライティングははなから影が濃くて不吉だし、ショッキングなシーンでは不協和音がジャーンと鳴る。主人公は途中からどんどん妄想が膨らんで、異常行動が目立つようになるんだけど、なんでその妄想にとりつかれたのかいまひとつ明快じゃない。もっと明快じゃないのは、「死んだ前の住人をトレースさせられている」妄想の主人公が、その女に近づくために女装しはじめるのだ。なんで自分から同一化しはじめたんだっけ? 原作がそうなのかな。
この女装、比較的かわいい童顔のポランスキーだけど、ここは男の娘ふうにほんとに可愛くせず、「おっさんの女装」の典型的な滑稽さと醜さを見せる距離感を残している。いずれにしても、3部作共通だけど、妄想と強迫観念のはてには解放はないのだ。「解放があるとすれば破滅することによってだけ」というのが監督のケリのつけかたなんだろうか。