ザ・ザ・コルダのフェニキア計画 & オズの魔法使

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ストーリー:1950年代、ヨーロッパの大富豪ザ・ザ・コルダ(ベニチオ・デル・トロ)は、架空の国フェニキア全域でインフラを整備する大規模プロジェクト「フェニキア計画」の実現を目指していた。しかし出資者たちは計画を信用しきれず思ったように資金は集まらない。ザ・ザは離れて暮らす修道女見習いの一人娘リーズルを後継者に指名し、新任の家庭教師と彼女を連れて、出資者たちをめぐる旅にでる......

ウェス・アンダーソン監督作は近年、見た目のキャッチーさとうらはらに物語が重層的になってきてストレートにお話に入り込めなくなり、シリアスなテーマを裏に込めて、エモーションをベタにかき立てない語り口もあって、じつはどんどん敷居が高くなっている気もする。今年ほとんど同じ時期に公開された同年代のアンダーソン、PTAの『ワン・バトル・アフター・アナザー』が映画野郎たちの絶賛を受けているのにくらべてなんだかあまり話題にもなっていない感じだ。

本作は過去3作にくらべると物語のメタ感はなくなり、時制もストレートに連続して、ラストの感慨もありがちなものになり、全体にだいぶ分かりやすい話になっている。設定やモチーフはいままでになく大きくて、一国のインフラ総合開発計画を推進する大実業家とそれを苦々しく見つめる某大国政府、みたいな道具立てになっているから、観客はいやでも現実世界を思い浮かべる。それと比べて描写も登場人物の振る舞いも、例によって「考証に基づいた大人の鑑賞に耐えるリアリスティックな描写」的なものには全く行こうとせず、どこか子供じみたカリカチュアライズされたのがずっと続く。

だからエンドロール直後の印象は、なんだか停滞感が拭えなかった。だいぶ前になるけれど、少し作風に共通点があるジャンピエール・ジュネの『ミックマック』に感じたのに近かったのだ。いつもの手捌きでちょっと違う素材を扱ってみました的なね。あきらかな前進とか深化みたいなのが実感できなかった。結局は親が子を、子が親を理解しようとする物語に収斂していくところもまさにいつものテーマだ。

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(c)Parco, Focus Features via imdb

モチーフになっている架空の国、フェニキア。世界史で中学生くらいの時にインプットされて以来ひさびさに聞く響きだ。本来のフェニキアは今のレバノンとほぼ重なる。出資者の中にはアラブ王族もアメリカ人もいる。ザ・ザ・コルダは、名前だけ取るとハンガリー系らしいけれど、直接のモデルは監督のレバノン系の義父や、アルメニア出身のカルースト・グルベンキアンという実業家で、そのほかギリシア海運王のオナシスやスタブロス・ニアルコスなどの富豪も参考になっているらしい。ベニチオのラテン顔は西欧やスラブの雰囲気じゃないけれどそれなら収まりもいい。

いつも命を狙われているザ・ザは何度も死にかけ、そのたび、いかにもコントっぽい天上界で審問を受け、生還してもその度に怪我が増えていき満身創痍になる。そんな彼と、修道院にいた敬虔なクリスチャンの娘。舞台設定や人物配置から、現代中東の政治と経済と宗教が入り乱れた騒乱・混乱に結びつけていくらでも見ることができるだろう。途中から左派ゲリラすら出てくるのだ(それもある時代の戯画的なコスチュームだけど)。

監督はその辺りの微妙なモチーフに、我々を「ああ、そこ考えてるんだね」と安心させるような説明的セリフも描写も入れず、軽妙なまでにどんどん話を進めていく。その突き放しは相変わらずだ。

とまあ、そんなある種そっけない、ただ見ると豪華なオフビートコメディとしても見れてしまう作劇と対照的に、画面は例によってまったく隙もなく、凝りに凝った美術と画面構成で全てが作り上げられていて、だれでも特別な映像だということがわかる。美術館やハイブランドとのコラボアイテムが散りばめられた画面もそうだし、とにかくオープニングのタイトルが出るシーン、真上からバスルームで湯船に浸かるザ・ザと周囲を群舞みたいに動き回るスタッフを撮ったいっさい歪みのない映像はその時点で強烈な映像的快楽をあたえるだろう。

  


🔹オズの魔法使

徹底的に人工的な空間の中で、表面的には分かりやすく、それでいて寓意に満ちた物語が展開する....ウェス作品もそんなところがあるけれど、そのジャンルの古典、1939年公開版の『オズの魔法使』だ。あまりにも名作で定番すぎる本作、とはいえ改めて見てみるといろんな味わいがある。

まず映像は、時代劇的な距離感はほぼ不要で、解像度や色の調子は「こういうもの」として見ればほとんど抵抗にならない。初期テクニカラーを使った鮮やかな色彩の作り方、スタジオ撮影であることは隠そうともしていないながら、無理がない書き割りとセットのコーディネイト、オズの国のアールデコっぽいモチーフも混じったお城の風景。それに当時16歳の主演、ジュリー・アンドリュースは、周りの俳優たちに混じって十分に踊れて動けて、なかなかにダイナミックだ。

モチーフはお馴染みの「ここではないどこか」に憧れる少女ドロシー、それぞれの欠落を自覚していながらじつは自分の中にすでにあったカカシ、ブリキ男、ライオンの3人の道連れ。それに「悪」の魔女と「善」の魔女、最後に正体があかされるオズの魔法使い。話の構造は、改めて見ると『かいじゅうたちのいるところ』もよく似ていたなあと思い出す。

本作、1930年代ということもあって撮影時の少々危ういエピソードの宝庫だ。特撮や特殊メイクも安全性が確立していなかったから俳優たちにもかなりダメージがかかり、ジュリーはスタジオの圧力でちょっと今の感覚では人権的にどうかという扱いも受けている。画面の中では無邪気に「異なる種族」をそのまま映していて、時代性を感じずにはいられない。

いま、SNSとかクオリティ低めのネット記事で1980年代あたりの映像や音楽を紹介されると「今から40年以上前にここまでの表現が....!」みたいな書かれ方することがよくあって「いや普通にいまよりクオリティ高いのあったから」と老害発言の一つもしたくなる。表現技術はどんどん洗練されてもアートのクオリティは時代とともに進化するものでもない。制作から85年近く経っている本作もそうだし、日本の戦前の映画だってそうだ。エンタメの文法とか魅力的な映像のイメージとかは多少形を変えても受け継がれてきているものなんだろうなと思う。