沈黙 Silence


<公式>
ストーリーは公式で。
まず、原作にすごく忠実な映画化だった。じつをいうと映画のあとに読んでみたんだけど、それぞれのシーンがほぼ違和感なく思い出される。日本人たちの描写と役者は少し違うけれど、違和感はない。重要な人物、キチジロー(窪塚洋介)だけが、おそらく原作イメージほど卑しさを強調されていない。むしろ不思議なトリックスター的香りさえする。原作のキチジロー自体、場面がどう流転してもあらわれるどこか謎めいた存在なのだ。


宣教師たちはマカオから密航船で長崎県の田舎に上陸する。ピュアで強固な信仰を持つ信者たちが暮らしている。でもその村はマカオの整然とした街とくらべると何世紀前か分からないぼろぼろの集落だ。宣教師が船で渡った別の集落も似たようなもの。食べものも最低限のものしかない。ぼくはちょっと金枝篇的な、くだけた言い方をすれば「アマゾン密林に文明と無縁の部族がいた‼︎」的視線かと思いかけた。ただ後半にかけて宣教師をとりまく風景も人も急速に洗練されたものに変わり、別種の文化圏だということが雰囲気で伝わるようになる。
こういう描写も原作そのままだった。原作では、序盤は宣教師の書簡の形をとっている。描写は西洋人である宣教師の視線を借りていて、だから金枝篇的になるのも無理はないのだ。都市が舞台になる後半は作家の客観的視点になり、長崎周辺の街の空気感がところどころで描かれる。

いわば敵役であるキリスト教を弾圧する役人たちは単純な悪役としては描かれない。カトリック教会の価値観と対峙する思想としておかれる。この話は、弾圧に負けて宗教者が信仰を捨てる話じゃないからだ。もちろん役人たちは時には残酷な暴力を駆使して、宣教師に棄教を迫る。しかし主人公は思考を麻痺させられるような目には全く会わない。むしろ延々と役人たちとの対話と自問自答とがつづくのだ。監督は、映画的には動きが少ないその部分も省略せずに描く。ラストシーンだけ、少し改変されている。ある種の救いがそっとしのばせてある。
こういってはなんだけど、主人公である2人の宣教師、アンドリュー・ガーフィルドもアダム・ドライヴァーも必要以上に魅力的に描かれない。生硬で一面的に見えてしまう。なんでだろうな、日本人役者も英語で明瞭にしゃべり主人公たちと議論する。そこのリアリティーはわきに置いているわけだよね。とにかく言語的メッセージを正確につたえることをすごく重視している気がした。