海獣の子供

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<公式>

ストーリー:琉花は中学生の女の子。夏休みそうそうトラブルで部活ができなくなって、父親が働く水族館に行く。そこには海中を自由に泳ぐ少年、海と空がいた。2人はジュゴンに育てられて水中に適応した人類だ。琉花に自分たちと似たなにかを感じた2人。誘われるように彼女は海の世界へと入っていく。その頃世界中の海でなにかの予兆みたいな現象が起きていた。2人と、その特殊な能力に注目する大人たち、〈なにか〉に集まるようにある場所にむかって一斉に動き出す海中の生き物たち....

この映画、主人公の少女琉花の、少年たちとのひと夏の出会いを描いた、ジュブナイル風作りになっている。おなじ海との交流を描いた『夜明けつげるルーの歌』もそうだった。でも本作、そのストーリーを見せるのが目的じゃない。

本作を語る時に、よく引き合いに出される『2001年宇宙の旅』。この映画、ストーリーはもちろんあるけれど、色んなシーンがストーリーと関係なくみんなに記憶されている。スターゲートのシーンをはじめとしてビジュアル的な強度がすごくて、パートパートが映像作品として記憶されているくらいだ。

そういう強烈なビジョンが1つでも入っていれば、映画は記憶される。いいシーンとか美しい画面とかそういうのはもちろんあるけれど、ぼくが感じるのは作る前になにかが「見えて」しまっているような作家たちの作品だ。それも具体的な風景の記憶に頼らずに。たとえば庵野秀明はその1人だと思う。『エヴァ』にしろ『シン・ゴジラ』にしろ、着想の元はあるのかもしれないけれど、はっとするようなイメージが至る所に見える。あとはテリー・ギリアムホドロフスキーギレルモ・デル・トロ、それにクリストファー・ノーランの作品も時にそういうビジュアリスト的な面を感じる。もちろん駿も。

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そう、本作もそんなビジョン勝負の作品のひとつに見える。

本作の原作漫画の作者、五十嵐大介は、CGに頼らず、ほぼボールペン(とトーン)、カラーは水彩で、細密な風景や、幻想的なイメージや、形にならない現象や、抽象的ななにかまで描き出す作家だ。「ビジョンが見える」作家なのだ。本作では〈水中で起こること〉をひたすらに描く。五十嵐は生物のリアルな描写もすごく上手く、ここに出てくる水中の生物たちはキャラクターっぽくなく、かといって図鑑の映しでもなく、体の大きさや、その巨大な生き物が動くエネルギーまで絵にしてみせている。

そんな原作を映画化した本作は、とほうもないエネルギーと時間と技術を放り込んでそれを再現している。日常のパートは最近のハイクオリティアニメではおなじみの、〈日本の伝統的風景+繊細な季節感描写+美少女〉だけど、そこでもあっと驚くような視覚的快感を用意している。テーマがそうだから、水のシーンが圧倒的に多く、あらゆるグラデーションのブルー系が画面をおおっている。原作の魅力を再現しようとすると、水の描写は様式化するわけにはいかないし、かといっていかにもCGっぽいリアルさでもだめだ。水のあれこれも動画とCGとしろうと目には区別がつかないくらい融合していて、しかも猛烈に要素が多い。ここはだれもが賞賛するだろう。

 

CG担当者へのインタビュー。必読!

 

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そしてクライマックスだ。もちろんネタバレは自重するが、海と宇宙が渾然一体となったような(それが作品全体をとおしたメッセージなのだ)壮大なビジョンがやってくる。主人公の琉花も少年、海もそのなかにいる。原作でもいっさいのテキストを排して延々とイメージが続く部分だ。映画でもそのイメージを膨らませてシーンを作っている。少年と少女がなんだか創世記の2人になるみたいな、「世界系」ならぬ「宇宙系」といいたくなる爆発的なスケールのビッグバンだ。

でも、少し原作と印象が変わった気がした。原作は〈海が(一惑星のなかの海が)宇宙の母体である〉的な世界観がある。物理的スケールでいえばわけわかんない話だし、たとえばある民族につたわる神話みたいな、海に対する民俗的なコスモロジーといってもいいだろう。それを絵として描くのだ。だから海中のスペクタクルと宇宙っぽいイメージが混ざっている。でも、映画を見てると、なんだかコズミックな雰囲気のほうが強くなってる気がするのだ。

コズミックかつファンタジックなビジョンって、今までいくらでも描かれてきてるわけだ(これとかこれとか)。だからこの場面になって新鮮みが若干うすれる感は正直あった。あと、あたり前だけど、このあたりの描写になると原作の魅力を再現するペン画調というわけにはいかず、CG感が強まる。すると世の中にあまたあるこういうイメージと似た種類の物になってしまう。そんなこんなで、トータルでクライマックスがあまり感動できなかったのだ。

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ただ、ちゃんとリスペクトしなきゃな、と思わせるところはやっぱりある。純粋ビジョンを見せる、ってけっこうきびしい真っ向勝負なわけです。アニメなら実在の聖地の風景とかの方が喜ばれやすそうだし、あるいはブレードランナー的な、リアルっぽい世界のビジョンを見せる方がずしんとくるかもしれない。そこを抽象的映像でやり切る、って、つまり裸で勝負しているようなものでしょう。こういう映像になるとファインアートの作品も較べる対象に入ってきてしまう。

本作は、そんな、作りたちが本気でつくりあげたビジョンを、入口を広くしてアニメファンたちにも届けたかったんだろう。だから物語をこっち側につなぎ止めるジュブナイルの部分は、すごくおなじみの感じで作っている。少女と少年の青春ぽい部分や、父母のエピソード。ぼく自身は琉花のセリフ回しや心のゆらぎ描写やありがちな目を見開くカットなんかが少し余計に感じてしまったけれど、バランスの問題なんでしょうね。

ちなみに、舞台の水族館は原作に合わせた新江ノ島鵠沼)で、江の電や鎌倉の風景が分かりやすくでてくる。でも琉花の地元はもっと田舎の、せいぜい伊豆の漁村くらいの雰囲気だ。だから神奈川県民としては地理的イメージが掴みにくくてちょっと困った。

■画像は予告編からの引用