エルヴィス & エルピス

■エルヴィス

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ストーリー:20世紀最大のポップスターの1人、エルヴィス・プレスリー。メンフィスの小さなレーベルのレコードが評判になりだしていた彼に興行師の通称パーカー大佐は出会う。初めてのステージでエルヴィスが歌い出した瞬間、女性客は熱狂し始めた。それを見た大佐は彼の成功を確信し、家族を言いくるめて有利な契約を結ぶ。ビッグスターになったエルヴィスの後ろには常に大佐が立っていた...

監督はバズ・ラーマン。エルヴィスのキャリアのほぼ最初から最後まで大河風に描いた。監督らしく、目まぐるしく画面をのトーンを変えて、カットは何が写っているか分かった瞬間に切り替わり、時代が違う音楽をミックスして響かせる。こういう技法はすでに結構歴史がある。1994年の『ナチュラルボーン・キラーズ』あたりは似た効果を狙ってる部分がある。だからどことなく古臭く感じてしまった。「斬新」とか思うからそうなるので、もう定着した1つの手法なんだろう。

物語のエモーションに関わる大事なシーンではトリッキーな処理はしない。カットは細かいこともあるけれど、きちんと役者の芝居を撮り、演技を見せている。有名なTV出演やステージ映像なんかは忠実に再現してくる。

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本作の語り手はパーカー大佐だ。悪徳プロモーターとして有名だった彼をわかりやすい悪役において、その対比としてエルヴィスは100%善玉として描いた。そしてステージのシーンは超自然現象、宗教的な法悦みたいに、彼のシャウトと腰の動きで老若の女性観客がステージに引き込まれて絶叫する。全編を通じて彼が歌い出しさえすれば観客は必ずそのカリスマに圧倒されて、白けるシーンなんて皆無だ。

プライベートも、純粋で割と穏やかで母にも恋人にも優しい、それでいて自分のスタイルを守るときはTVにも政治家にもスポンサーにも妥協しないピュアな表現者として描く。実際の彼がどうなのか知るよしもないけれど、意外なのは心身がボロボロになっていた晩年でも、違法ドラッグには浸かっていなかったし、アルコール依存症でもなかった。彼の後に現れては若く死んだロックスターたちよりもよっぽど健全なのだ。

本作ではとにかく、エルヴィスの、ブラックミュージックと白人文化を繋いだ越境者としての部分を強調している。誰にでもわかるように、音楽的インスピレーションはダンスホールのブルースシンガーと教会のゴスペルだと語る。売れてからもB.Bキングやリトル・リチャード、ゴスペルシンガーのマヘリア・ジャクソンなどのステージに行き、後輩ミュージシャンとして付き合うシーンや、自分を見失った時、ブラックミュージックとの出会いに立ち返るシーンとかが繰り返されて、このメガスターがブラックミュージックから生まれていると言い切っている。キャリア中盤以降は伝統的な唱法やラテンぽい曲も取り入れたりした彼だけど、そこは言及しない。ここの強調が今の映画としてのスタンスの表し方なんだと思う。

エルヴィス役オースティン・バトラーは、どことなくラテン味のある実物とは別系統で、どっちかというと白人ヤンキー顔(という表現も捩れてるが)系。でも歩き方からステージのダンスのキレ、それにステージでのキメ顔が撮り方もあって異様に絵になる。中年化してからはさらにそれらしさも増して画面を十分に支えている。ただなぁ.....実話とはいえウザすぎるプロモーターを何度切ろうとしても切れず自分から屈服してしまうエルヴィスに歯痒さが増してきて、終盤は若干フィナーレを待ってしまったところはあった。

 

 

 


■エルピス ー希望、あるいは災いー

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ストーリー:スキャンダルで看板番組から降ろされ深夜番組のコーナーを担当するアナウンサー(長澤まさみ)。ぼんぼん育ちでぼんやり働くディレクター(眞栄田郷敦)。2人はひょんなことから数年前の連続殺人事件が冤罪では?という調査を始める。でも調査報道を歓迎する周囲はどこにもいない。挫折や軋轢の中で2人は、そして先輩の政治部記者(鈴木亮平)、報道から左遷されたプロデューサーたちは....

TVがないから最近の地上波ドラマの良作はどんな感じか分かっていない。でも多分、本作は最近なかなかできないタイプの作品だったんだろう。本作は冤罪事件からいわゆる「政治の闇」方向に話が広がる。地上波を考えると「えっ」という展開もある。過去には映画やおそらくTVでもこういうテーマはなくはなかっただろう。ひょっとすると刑事物とかで最近もあったのかもしれない。でもTV局内部を自分から晒して見せるのはあまり見たことない。

演出や脚本も締まった作りで、嘘くさすぎる業界描写とか(TV局内だからリサーチ不足の心配ないし)、軽すぎる芝居とか(多少戯画化しすぎのキャラクターはいたが)、妙ないい話方向のまとめなどが少なくて、特に最終話はなかなか圧倒された。

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本作の賢明なところは物語上の「悪」を見せなかったところだと思う。巨悪も直接の悪も。それから悪の直接的行使も。現場にいる2人に見える範囲だけを観客にも見せる語り口に徹底しているのだ。巨悪を描こうとすると、どんなに想像力を駆使しても実際のスケール感には絶対敵わない。矮小で、軽く、戯画化したものになる。直接の悪を描くと、たぶん本作のテーマからぶれる。本作は「悪」そのものがテーマなんじゃなく、「悪」とみなしたものにメディア人の個人がどう向き合うかの話だからだ。

こういう語り口の先輩格が巨匠黒澤明の陰謀もの、『天国と地獄』だ。巨悪に人生を壊されて単身で復讐に向かう主人公を描く。巨悪は声も顔も何を言ったのかも観客には知らせない。その結果主人公がどうなったのかも見せない。実際の事件でぼくたちが知る時みたいに、そっけない字幕で起きたことを伝えるだけなのだ。