ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス

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<公式>

ニューヨーク公立図書館(NYPL)。市内に本館・分館あわせて92館をもつ、政府や自治体に属さない独立の組織だ。本作はこの組織がどんなところか、それを描いたドキュメンタリーだ。

NYPLは年間予算は約340億円、本館と4つの研究図書館、それにマンハッタン、ブロンクス、スタッテンアイランドに合わせて87箇所の分館がある。3地区平均で住民約38,200人あたり1館、面積でいうと約3.5平方キロに1館ある計算だ。本館は旅行者もけっこう訪れる観光地で、ブライアントパークに隣接した古典主義の建物が美しい(street view)

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公式ページだと、NYPLは「世界中の図書館員のあこがれのまと」だそう。じゃあ東京はどんな感じか見てみましょう。都立図書館は、中央図書館と多摩図書館の2館しかないけれど、東京の人たちなら知っているように、身近な図書館は区立とか市立だ。都立図書館の年間予算は14.7億円、区・市立図書館の予算も含めれば倍以上になるかもしれない(例:世田谷区の予算のなかで「図書館ネットワークの整備・拡充」で約2000万円だ)。それでもNYPLの年間予算には遠くおよばない。

予算ではだいぶ差があるけれど、施設の数はどうだろう。東京都(23区)には1館の都立図書館、232館の区立図書館がある(といってもコミュニティセンターの付属とかサービスステーション、分室、こども図書館とかをふくんで)。住民約39,500人に1箇所、面積でいうと約2.7平方キロに1箇所ある計算だ。この数値、なんだろう。びっくりするぐらい似た数字じゃないだろうか。でもあれだね、1館あたり4万人、ってけっこうな人数だ。

そんなわけでNYPLは市民からすると、身近さは東京と似た感じ、けれど予算が桁違いに多い分、1館あたりの、運営の充実度がけっこう違うということかもしれない。本作でもびっくりするようないろいろなイベントや教室、サポートプログラムが紹介される。

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本作はドキュメンタリーの巨匠、フレデリック・ワイズマンの2017年の作品。ぼくはワイズマン作品を見たのは初めてだ。1作で作風をどうのこうの言いようもないけれど、少し近いのとくらべて見てみると.....

 

『ようこそアムステルダム国立美術館へ』は美術館改修計画を追ったドキュメンタリーで、公共施設の内外のスタッフの仕事ぶりや市民の表情が写る絵面も良く似ている。少し違うのは(見たのがけっこう前ですこしあやふやだけど)インタビュー映像が若干あったような気がする。これがあるとないとで撮影者の立ち位置はけっこう変わる。撮影者が傍観者じゃなくなるからね。本作はインタビューは一切ない。対話シーンは、すべてカメラの向こうのひとびと同士が語っている。カメラは建前上、ひとびとにとってほぼ透明な存在だ。

 

核廃棄物貯蔵施設を描いた『100,000年後の安全』との違いは、まず撮り方だ。『100000』はときどき被写体の施設や機械類へのフェティッシュな視線がまじりこむ。移動カメラでやけに格好よく撮ったり、あるいはライティングで少しドラマティックに人間を映したりもする。効果的な音楽も入る。本作はカメラはすべて固定。アングルもものすごくオーソドックスなもので、撮影用のライトも、あったとしても補助的最小限のものだと思う。映像ワンカットワンカットはそんなにはっとするようなものじゃないのだ。それから音楽は、入るとしても撮影対象が演奏シーンだった時だけ。つまりその場の音声だけを流している。

 

ワイズマンに影響を受けたと自分でもいっている想田和弘の『精神』。アプローチは多分一番ちかい。違うとすると編集かもしれない。想田の作品はあとは『選挙』くらいしか見ていないけれど、手持ちカメラで比較的粘り強く対象者を撮りつづけて、長いワンカットをそのまま見せるシーンが印象に残っている。本作は、細かいカット割りでリズムを作っている。ある施設を紹介するときは、全景→通りのサイン→内部、みたいに始まり、視点の変化をカメラの動きじゃなく違うカットで表現する。対話シーンもそうだ。カメラは透明な存在でも編集者という作り手の仕事は一見して印象づけれらる。

 説明的なナレーションやテロップが一切入らなず、現場の音声だけという点では『精神』、それから食糧生産の現場を撮った『いのちの食べ方』と同じだ。本作との違いは、『いのち』はナレーションだけじゃなくインタビューも、それから登場人物たちの会話もすべて言葉を排して、映像のみですべてを見せようとしているところだ。

それにくらべると本作は、ほとんど「ことばの映画」といっていい。図書館では著名人の講演やトークショー、専門家やスタッフのレクチャーを開催し、資料についての問い合せには、スタッフが探し方、どんなふうにアプローチすればいいかまで教え、子供たちやPCに慣れていない人、など向けにさまざまな教室もある。そして運営者の会議や打合せのシーン。つねに明瞭な言葉が流れつづけ、観客はその言葉を通じてNYPLという場所・組織がどんなものか理解することになる。『いのち』とは対照的だ。

 

といわけで、本作は上映時間3時間半、間に休憩が入るような長い映画だ。だれでも面白いという作品じゃないのは当然のこと。見ていて腰も微妙になった。それでも、自分たちの社会に、こんなにも筋が通って、頼もしく、盤石で、活動的な文化インフラがある、それはたしかにうらやましい。アメリカのニュースを見ていると、トランプ的なものに席巻されて、「ゲスな本音こそリアル」みたいな反知性主義を色濃く感じるけれど、NYPLのような民主主義と知性・教育の平等を守る牙城は、意外なくらい堅固にあるんじゃないか、そんな気がした。NYPLは、民間の非営利組織が運営し(公共予算の補助がおおきいとはいえ)独立した組織でこの規模を運営しつづけている。名門大学も意外にそうなんじゃないだろうか。

なんかさ、クールジャパン政策の底の浅さとかを見ていると、各階層で、いわゆる「文化」とか教養主義をあまり目の敵にして追いやっちゃまずいんじゃないの、とは思う。

■写真は予告編からの引用