マックイーン モードの反逆児

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アレキサンダー・マックイーン(リンクはGQの紹介ページ)。彼の名を冠したブランドは、創業時からのパートナー、サラ・バートンがクリエイティブ・ディレクターをつとめる。本作はマックイーンの青年期から死までを残された映像とあたらしく撮ったインタビューで構成した伝記的なドキュメンタリーだ。.......正直にいいましょう。ぼくはマックイーンの商品はなにひとつ持ってない。マックイーン本人もろくに知らなかったし、そもそもぼくはファッションはそこそこ好きだけど、モードの世界とほとんど接点もない。

じゃあ、なんで見たの? 確かに。劇場の観客は大人の女性がやはり多かった。ブランドのコアなファンかどうかはともかく、ぼくの数十倍はマックイーンリテラシーが高い人たちだろう。でもまあ、それを言ったらメキシコ麻薬戦争の世界との接点なんてもっとないし。でもぜんぜん楽しめる。映画ってそのくらいの敷居の低さがいいところだしね。作品の全体像はNewsphereの紹介ページあたりを見るのがいちばんだ。ちなみに本作は、年代をおってキャリアと作品とエピソードを紹介していく、初心者の観客もおいてきぼりにしない語り口だった。

かれの作品を良く知らない観客は、純朴そうな小太りの青年(はっきりいってまったくファッショナブルに見えない)がどんどん変貌していく約20年を人間ドラマとして見てくことになる。20歳前から40歳までの20年。それだけの時間があれば、ひとの相貌なんてけっこう変わる。それにしてもかれの、特に後半のルックスの変わり方はなかなかのインパクトだった。以下の並び、ひょっとすると年代がまちがってるかもしれませんけど。

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映画のなかで語られるマックイーンは天才性のあるクリエイターにじつにありがちな「実生活では苦労のもと」になる要素をあまりにももれなく揃えてしまっている。失読症をかかえ、繊細で、人を信じるのが苦手で...... それでもブランドを商業的にも成功させていたんだから、商才や社会性はあったんだろう(映画のなかでトム・フォードがかれのアーティスティックな面と商業性のバランスの良さをちょっと皮肉っぽくほめている)。「苦労のもと」にふくめるのはフェアじゃないかもしれないけれど、映画では彼のセクシャリティについても触れていて、別れた恋人もインタビューに答える。かれは後年HIVポジティブであることがわかる。

関係があるのかわからないけれど、若い頃の性的なトラウマが最後近くであかされる。それはホイットニー・ヒューストンとおなじ、同性の近親者による被害だった。なんともいえないものがあるね。 ちなみに、一番下の写真で一緒にいるのは、たぶんアナベル・ニールソンというモデル。2人は長いこと親友で恋人に近い存在でもあったみたいだ。彼女もわかいころに薬物中毒にくるしんで、マックイーンの死後、49歳で急死してしまった。

本作ではかれのインタビューやプライベート映像、それに周囲のひとのインタビュー以外に、もちろん作品であるコレクションやショーの映像も流される。まったく知らなかったぼくも、かれのショーが、一貫してゴージャスとかグラマラスと逆の、ひりひりした、ダークな、神経をさかなでする、時にはなにかのモンスター性を引きずり出すようなものだったのはおぼろげに理解した。

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同時に思った。モードの世界のクリエイションは、もちろんグラフィックや店舗デザインや、ブランド全体を成り立たせる総合的なものなんだろうけど、コアは衣服そのものなわけだ。衣服はとうぜん「人体」にはげしく規定される。大きさだって基本フォルムだって。そしてショー。これも観客がいて、ランウェイがあって、業界共通の美意識で選別されているモデルが歩く、というお約束のなかで世界観をうちだすわけだ。

どんなアートもデザインもその対象や用途があるかぎり、制約があるし、お約束がある。たとえばカーデザインだって壮大な約束事の共有で、あの手のデザインに意味がついている。ガーデンデザインだって、手法や素材の選択肢はとても限られていて、制約からすこしはみ出そうとする試みはたいていキッチュ方向になってしまいがちだ。モードの世界はどうなんだろう。

人体をまとう、決まったスケール感とフォルムの中に「世界観」とか「思想」とかを盛り込むとなると、それを表現して、かつ読み解くコードを共有するには、そうとうに高いリテラシーが必要なんじゃないだろうか。つまりそれはデザイナーとファッションジャーナリストだけが共有するものになってしまうんじゃないだろうか。逆に人体に強く制約される表現だからこそ、人体の見え方を改変すると(ショーのなかでヘアやメイクで別の生物みたいに見せたりすると)、その異化効果はすごくおおきい。そんなことを見ていて思った映画だった。

■写真は予告編から引用