ザ スクエア


<予告編>
ストーリー:ストックホルムの現代美術館。チーフキュレーターのクリスチャンは新作インスタレーション『ザ スクエア』の展示のお披露目が近い。ある朝、通勤途中に手の込んだ手口にハメられてスマフォと財布を掏られてしまう。追跡機能で場所を絞りこんだクリスチャンは部下のアイディアに乗せられて、犯人がいるマンションの全戸に脅迫めいたチラシをポスティングする。意外にもそれが功を奏し、盗品は戻ってきた。けれどそこからかれのまわりはトラブルだらけになる。最大のトラブルはプロモーション用にPR会社が仕掛けた炎上必至の動画だった……

アート界を舞台にしたフィクション、本コラムで言えば『鑑定士と顔のない依頼人』『モネ・ゲーム』、どこまでフィクションかのあいまいさ含めて作家らしい『エグジット スルー ザ ギフトショップ』。『ノクターナル アニマルズ』も本筋じゃないがヒロインがギャラリストで、現代アートマーケットの空気感が漂っていた。
ドキュメンタリーの『ようこそアムステルダム美術館』『オラファー・エリアソン 知覚と視覚 』は、それぞれ展示側と作家側から本作と共通する世界をかいま見せてくれた。物語の作りでいえば近いのが、フェリーニの名作『8 ½』とかトリュフォーアメリカの夜』とか、ディレクターが現場とプライベートとお祭騒ぎめいたトラブルの連打を食らいながら、総体として現場は進んでいく感じの作品だ。
監督はミヒャエル・ハネケが好きだとどこかで読んだ。突き放したシニカルな視線はよく似ている。主人公 はデンマーク人が演じる。ピアーズ・ブロスナン風で、絵に描いたようないい男っぷりと絶妙な「こいつ、どこかいい加減そう」オーラを同時に放射している。しゃれたマンションに住み、テスラに乗って、1度インタビューされた外国人記者とベッドに入る。

作り手が観客に見せたいことはわりとはっきりしている。良識的に振る舞うスウェーデン人社会に同居している、けれどその視界の外に置かれている人びとだ。彼らは移民であり、貧者であり、異端な人であり、理解しがたい人だ。何度も何度もインサートされる物乞いたちのすがた。低所得者エリアに住む人たち、精神のバランスを欠いている人、人々を不安にさせる表現者
彼らとの出会いは居心地が悪い。ひたすらに居心地が悪いシーンが続く。良識的な人々は彼らに露骨な嫌悪感を表すわけにはいかない。脳の病で卑猥な単語を叫び続ける男がトークショーに紛れ込んでも、司会もアーチストもそれを排除せずがまんする。インクルーシブでディヴァースじゃなくちゃいけないのだ。社会は。美術館主催のパーティーの余興。猿になりきって見せるパフォーマーが走り回る。やがて彼は野生を演じてるんじゃなく、本当の野獣のように粗暴に振る舞い始める。でも誰も怒って見せることはできない。少々過激でもアートである以上理解しないといけないのだ(その先にはさらに苦いシーンが続く)。異端ではないけれど、主人公は部下たちのうち移民の2人だけに私的な用事をさせたりもする。
こういう風にひたすらに「上品な人びとの仮面を剥ぐ」エピソードが積み重ねられた末に、主人公は汚れにまみれ、上品さから転落する。追い打ちをかけるように動画炎上事件が起こるのだ。ちなみに作品中のエピソードはだいたい実話だったり実在の作品だったりする。

居心地が悪いシーンは長回しで撮ったり、しつこく繰り返されたり、あとは音による演出もくり出される。日本や北方ヨーロッパもそうだろうけれど、洗練された人びとは静かであるべきところでは静かだ。声のトーンも慎重に調整される。それはソフトな抑圧でもあって、だからそんななかに異端者の声が響くと、とても落ち着かなくなる。本作ではいろんなタイプの異質な声が明らかに神経を逆なでするノイズとして使われる。
つまりこの居心地の悪さがぼくらが支払うべきコストなんだよ、ということなんだろう。そのコストにうんざりした人びとの バックラッシュが世界中で起きてるいま、皮肉屋の監督は、それでも主人公を少し成長させて終わらせる。同居している以上、完全に無縁ではいられず、どこかで力を借り、貸している。ずっとそれを見ないふりしていることはできないのだ。