人類遺産


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廃墟。この映画は廃墟だけをほぼ静止画のように観賞する映像体験だ。動きは…..ある。たとえば水がたまっている朽ちた建物。表面の波が壁にうつるきらめきはゆらゆら形を変える。だけどほぼカメラは動かない。いわゆる環境映像ともどこか感触がちがう。もっと禁欲的だし、もっと、なんというか儀式的ともいえる立場に見ているぼくたちを連れ込むのだ。
監督、ニコラウス・ゲイハルターの『いのちの食べ方』は日本でも話題になった。ぼくもこの作品の、とことん禁欲的でできるだけニュートラルな撮り方にはそうとううたれるものがあって、その後に見た環境系のドキュメンタリーを見るたびに(これとかこれとか)、あの感じがいいよなぁ、とつい引き合いにだしてしまったのだった。
この作品では相手が基本的に活動休止している廃墟だから、よけいに映像には動きがなくなる。儀式的と書いたけれど、その場所にいき、教会の祭壇に向かうみたいに建物の正面に立ってしばらくじっと空間を感じるような、そんな見方をさせようとする。もちろん人はだれも写ることはない。
空間だけの映像は、なんとかいっても人の吸引力にはかなわないところがある。人は人がいるとどうしても注意をひきつけられるのだ。たとえばテレビ東京が放映している『廃墟の休日』。場所のチョイスはけっこう意欲的だと思うし、純粋に空間を堪能したい人のことも考えた映像を見せる。でも番組はオフビートな雰囲気をねらってるようなフェイクドキュメンタリー仕立てになっていて、俳優と映像作家の中途半端な珍道中ものがまじりこんでいる。

つまり番組制作者は廃墟映像だけで持たせる自信がなかったのだ。「みんなが知ってる人」の吸引力とゆるめの会話で視聴者をゆるめないときついと考えたのだ。コメディ仕立てはあまりにも中途半端だけれど、人を映し込みたい、人の声を入れたい、制作者の気持ちもわからないじゃない。
ゲイハルターはもちろんそんな作りにはしない。作家だからね。よくある環境映像みたいに、ロングとクローズアップを入れ替えたりカメラを動かしたり,編集でリズムを作ったり、ということもしない。よくある映像を作って見せてもしかたがないのだ。
その結果、ぼくはこの映画に写っているはずの廃墟のいくつかについて見た記憶がない、という状況になっています。たぶんそのあいだ夢でも見ていたんだろう。睡魔とたたかった記憶は何度もある。残念だけど。寝不足だったしね。ま、それはいいのだ。じゃあ全部きちんとみたら違う精神状態で映画館を出たか、というとそれはないだろう。ストーリーがあるわけじゃないし、首尾一貫した観賞をもとめないのがこの映画の良さでもある。
さて、ここで紹介してる3枚の写真、2つは予告編からのキャプチャー、もう1つはぼくが撮った。ま、見ればわかりますよね。すきなのだ、こういうのが昔からね。廃墟好き、一定数いるでしょう。ぼくもその1人。その体験からいうと、廃墟観賞のすごく大きな部分はアプローチだということだ。すぐに到達できるところもあるけれど、それなりに人里はなれていたり、簡単には入れなかったり、そもそも存在を知らなくて「匂い」に引かれて踏み込んでいくとそこにあったり。アプローチ込みの体験なのだ。

『廃墟の休日』のドラマ仕立ては、じつはそのアプローチを追体験させるためのものでもあるのだ。でもこの映画ではアプローチはいっさいなく、いきなりその場所が写る。われわれの個々の体験とかの話じゃなく、そこに厳然と存在しているもの、それをひたすら記録する。そんな映像だ。ストーリーは場所がすでに持っているのだ。
映画の前半では福島県浪江町のなんでもない市街地が何シーンか写っていた。他の廃墟とちがって崇高でも超然とした雰囲気でもない。日本の地方都市の一角だからきっちりとデザインされているわけもなく、シンメトリーだって甘い。フォトジェニックな場所じゃない、ただの人がいない街だ。たぶん監督もその違いは感じていて、それでも作品の中に入れたんだろう。映像は雨が降っていた。