小さいおうち


<予告編>
ストーリー:大正生まれのタキ(黒木華)は雪深い山形から上京して、大田区にある小さな洋風の家にすむ平井家の女中になる。奥さま時子(松たか子)は苦労を知らなさそうな、あかるい美人。病弱で存在感のうすい息子、奇妙に記号的な夫とくらしながら、風采のあがらない父の部下(吉岡秀絀)に思いを寄せる時子に、タキは胸さわぎをおぼえる。時代は昭和10年代、おだやかな空気から急激に戦時の社会に変わっていく東京でタキは小さな家とその家族を見つづける。

しっくりとよかった。主演の女優2人の魅力はもちろんある。不思議なくらいの田舎娘顔と頭身が高い体のアンバランスさがいい黒木華。そこにいたら何もいわなくても周囲を支配する空気をつくるだろう、松たかこの存在具合。
原作だと2人の関係はもっと深いみたいだ。映画では平井夫婦のもとに奉公にはいるタキだけど、原作で最初に仕えたのは時子の前の旦那との家庭だ。旦那はすぐに亡くなり、連れ子と一緒に再婚する時子にタキもついていく。プロローグ的な前の旦那のエピソードをはしょったからか、映画ではわりとシンプルな一方向のながれがある。子どもの病気はあっても、のんきで希望のある序盤の時期から、きゅうくつで身の回りの死が日常になっていく戦時への世相だ。平井家をめぐる人々も、急流に浮かぶボートみたいに、止めようがない流れにのって変わりゆく景色のなかを漂流するのだ。

時代にほんろうされる家族をかよわくも守るのが、赤い屋根の家だ(こういう間取りだそう)。洋風でちょっと洒落たその家は、堅固でマッチョな城じゃない。台風がくれば扉や雨戸がおかしくなる、どこかたよりない居場所だ。昭和初期にはこういう、外観がすこし洋風で、玄関わきにシュロだのリュウゼツランだのが植わり、玄関と応接間だけが洋風な家はけっこう多かった。って知っているみたいな言い方だけど、映画の設定にある大田区の馬込や多摩川の段丘上の地帯、それに目黒や世田谷、荻窪や大泉……当時の新興住宅地には多かったのだ。さいきん急激に建て替えで消滅したけれど、1980〜1990年代ならじゅうぶんにあった。
こんな街でのくらしを同時代に描いていたのが、たとえば小津安二郎の『生まれてはみたけれど』だ。そこでも書いたけれど、ぼくはこのての家の一つで生まれたから(もちろんだいぶ古くなっていたし、そのあとしょうもないプレハブ住宅に変わってしまったけれど)みょうなノスタルジーがある。原作では東京の西部だというから、荻窪あたりかもしれない。映画では大田区の丘の上にかわり、時子が息子がいく小学校を「宮前小学校」といっているから、品川区の戸越の近くという設定かもしれない。

この映画、女たちと、彼女たちを包む環境のはなしで、『海街ダイアリー』と共通性がある。でも本作には街の風景はまったく出てこない。家の前の道路、丘の上の家から見たぼんやりした遠景くらい。いま、戦前の住宅地の雰囲気があるロケ地を見つけるのはたしかに難しいだろうし、CGでつくっても....というのもあるだろう。予算の制約もあるだろう。おうちの外観が全体に映るシーンは「わざとか?」というくらいに模型っぽくてリアリティがないときがある。タキが上京する雪深い村の景色はちゃんと雪中ロケで撮っているんだよ。
タキの視点から描くこの話が『海街』と決定的にちがうのは、彼女をつつむ環境は小さいおうちそのものなのだ。『海街』の姉妹たちみたいに、気のいい街の人たちに囲まれているわけじゃない、タキには地縁がないのだ。
小さな女中部屋に一生いられればいいんだ、とタキは時子にいう。時子への思いがすこしセクシャルなニュアンスを含んでいるのは2回くらい描かれるけれど、そこは本筋じゃない気がする。少なくとも相手が応えてくれる愛である必要はないのだ。
ほかに居場所がないといえばそうだ。東京には身よりらしい身よりもないお女中だ。はたからは「もっと広い世界があるのに」と見えるかもしれない。それでも小さな親密圏のなかにとどまること。
限定された世界と可能性の中にしあわせを見る、そんなタキに、観客はせつなくも「昔の人の矜持」みたいなものを見るのかもしれない。