KOTOKO


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ストーリー:琴子(Cocco)はシングルマザー。愛する息子にとんでもない危険がせまってくる妄想が頭からはなれない。そのうち他人が2人に見え始める。分裂した2人は、1人は無害な市民、でももう1人は息子を襲ってくるのだ。不安定ぶりがひどくなってきた琴子は、幼児虐待をさけるため子供を姉家族に預けるように命令される。沖縄ののんびりした家でくらす息子。孤独に生きる琴子に思いをよせる男がいた。どうやら高名な文学者らしい男(塚本晋也)は自己と他人への破壊衝動を抑えられない琴子を全身で受入れる。田中といっしょになることで安定をとりもどした琴子のもとに、息子が帰ってきた…….

2012年公開。見た直後の印象は「プライベートフィルムじゃん」だった。CoccoがあまりにもCoccoなのだ。いちおう劇映画だけど、キャラクターである琴子を見ている気がしない。ドラマというよりは、Coccoのストーリー付きパフォーマンスの記録みたいな気さえしてくる。シチュエーションを与えられてまったくアドリブでふるまうシーンもあるし、ワンテイクでカメラにむかって1曲歌いきるシーンも、雨のなかでひたすらに踊るシーンもある。塚本監督はむかしからCoccoに魅力を感じていて(『BULLET BALLET』のヒロイン千里はCoccoがヒントになったといってる)、ついにその機会がくると、手持ちの世界に彼女をはめこむのじゃなく、彼女にあてがきで物語の世界をつくった。Coccoも脚本からくわわって、琴子のキャラクターはいっそう「自分」に近づいた。
強烈な映画なのはまちがいない。見ていてきつくなる人も多いと思う。ぼくも正直見返す気力はなかった。クレイジーなときのCoccoの演技は、おなじような芝居を、かりに上手な女優ができたとしても、あの感じにはやっぱりならないだろう。面相や雰囲気ふくめてむきだし感がすごいのだ。演技じゃないんじゃないかという言い方もあるけれど、そこは、もとめられるシーンに、もとめられる動きとふさわしい感情の状態を自分からひっぱりだす、つまり演技そのものなんだろうと思う。でもさっき書いたみたいな理由で、ドキュメンタリックにも見えてくるとこがあるのはたしかだ。

そして理由不明に彼女に惚れてつきまといつつ、やがて一緒にくらす男。塚本は攻めの部分をいっさい出さずに、ヒロインを見つめる眼差しとして、暴力の対象として(その結果見た目が変容して)、ヒロインをまもりその存在を受け入れる、彼女にとっての世界の中の救いとしてそこにいる。物語のなかで2回だけ平穏なシーンがある。琴子が実家に子供を訪ねていく沖縄のシーン、それに琴子が男を受け入れた日々のシーンだ。琴子は普通にしゃべり、おだやかに歌う。
このあと映画の中のおおきなナゾがある。ネタバレはやめておこう。ただそのシーンに思うのは、男は琴子と違ってそんなにリアルな人物じゃない。さっき書いたみたいに琴子にとっての救いを1人の形で見せてるようなものだ。塚本は物語上のある機能として男を演じる。確固としたもう1人の人物が対峙してるわけじゃない(『6月の蛇』で監督が演じた役とそこは似ている)。あくまで彼女の道行きのなかの「ある時期」でしかないのだ。琴子がそのままほんわかと救われて治癒して話が終わったら、そっちのほうが訳がわからないだろう(夫が主体的に存在する『ぐるりのこと』じゃないのだ)。彼女は最後の救いにむけてもっと追い込まれていかなきゃしょうがない。
これ見て『ダンサー・インザダーク』を思いだす人は多いだろうと思う。あそこまで作りこまれた世界じゃなくて、かつある意味リリカルで素材感があらわだけど、ぼくも思いだした。映画のなかにある母親のあらゆる不安。監督はこのころすでに『野火』の準備でかつて戦場で一線を踏み越えたような老人たちに話を聞き続けていた。そこで焼き付いたいろいろがこの映画にも映り込んでいるだろう。