野火


<予告編><必読系参考>
塚本晋也の作品って、半分くらいしか見てない僕の印象ですまんが、いつも象徴劇のふんいきがある。特殊効果で人体の変容をリアルに描いても、「実物と見間違う」ようなものじゃなくて、なんというのか、絵画みたいに体験される。これがほんらいの狙いなのかどうかはわからない。監督が自分の特異なビジョンを商業映画のパッケージのなかになんとか再現しようとする苦闘(たぶん予算も闘いの主要部分なんだろう)の結果が、象徴劇ふうの手触りになるのかもしれない。
『野火』でも、フィリピンの熱帯雨林、目的のはっきりしない無限の行軍(というか彷徨)、そこで出会う生者より多い死者たち、戦闘で身体を破壊されてモノに変容していく人たちを監督はそれなりにリアルに見せる。観客によってはストレートに衝撃をうけるだろう。でも僕にはそれも象徴的表現に見えた。血まみれの肉体は実際以上に彩度をあげた赤紫。血しぶきはスプレー状に派手に吹きあげる。「作り物とわかっていても痛い」よりもう少し「作り物とわかる」方向によっているように見える。
それがさっき書いた「絵画みたい」という意味だ。この映画は、できごとを俯瞰させるというよりは体感させる系で、『ゼロ・グラビティ』に近いとさえいえる。おおきな違いは『グラビティ』が作り手の主観を隠して臨場感を高めることに集中しているのにたいして、『野火』では作り手の主観ごと体感させようというとしてるところだ。このつくりを極限までそぎおとしたのが、悪夢を見ている感覚を観客に追体験させた『HAZE』だったと思う。監督は実際の風景にプラスして、いつものノイズミュージックやぶれるカメラやインサートされるイメージ映像で表現する。はっきりいえばそれらがすべて監督のビジョンの具体化なのかは微妙だ。もっと制約がなければ別の映像だっんじゃないかと思えてくるところもなくはない。

それでも主人公がおかれた空間がどういうところかははっきり伝わってくる。主人公はひたすら歩くけれど方向ははっきりしない。孤独に密林をさまよっていた主人公が、やがて本隊に合流すると密林はにぎやかになる。でも声はしない。ほとんどが死体だからだ。いや、じつは死体かどうかわからない。行きている兵士も動きをとめて、もしくは動けなくなって、死体に近づきつつあるように見える。かれらはどす黒く、森林の緑の中で死の色を表現する。植物でも動物でも、乾燥地帯以外では死んだものは黒くなっていくね。
ここでの戦争はほとんどの時間、静かなままだ。ごくたまにある戦いは、どこか分からないところから飛んでくる銃弾として表現される。音がした瞬間に目の前の兵士の身体が変形して、それが銃弾だとわかる。中東の戦闘に従軍したイスラエル兵のドキュメント『戦場でワルツを』でも銃撃はおなじように表現されていた。

そして、飢え。戦闘シーンがごく少ないこの映画では、生死の問題はむしろ食糧をつうじて描かれる。人を動かす道具として固そうなイモが使われる。それを力づくでうばおうとするやつも、奇妙な取引でそれを集めるものもいる。そして、近場にあってもっとも食料としてのポテンシャルがあるものにどうしても目がいく。肉だ。最初に兵士の体験談として出てくる、同僚兵士のカニバリズム。物語の終盤ではそれが画面全体をおおうようになる。監督はインタビューで語っている。原作にあったような、倫理的・宗教的な苦悩は描かない。なぜかというと監督自身がきいた元兵士たちの話から浮かび上がるのは、生きるために不可避のこととして、いわば普通にあった事態だったからだと。たしかにそこには神との対話もない。泣き虫だった少年兵がいつのまにか俊敏な野獣になって肉を狩るすがたがあるだけだ。
イモや肉にまじって、主人公がある出来事のあとに手に入れた大量の塩が独特の存在感をはなつ。1人でさまよっていた彼が他の部隊の兵士に受入れられるのは、塩を与えたからだ。べつの場面でも「塩をくれよ」と彼を呼び出した兵士は他の兵にいえない本音をいう。じっさいにも塩はそうとうに貴重だったのかもしれない。熱帯で汗をかき、塩分が決定的に不足するといろんなタイプの変調がおこるはずだ。体の組織からナトリウムが溶け出し、塩分濃度を下げないために体内の水分はさらにへらされる。登山で足がつるのも水分補給だけして塩分補給をしないのが一つの原因だとよくいう。そんな現実問題と同時に聖書での「塩」の存在感も思い出さずにいられない。塩はじつにいろいろな象徴につかわれる。主人公が塩を手に入れるのは、まさにカトリックの教会という場所でおおきな罪をおかした、その代償なのだ。

主人公はいつもの塚本作品とおなじで、監督本人。監督は主演が自分にならざるをえない(予算的に)ことにがっかりしたというけれど、違和感はない。兵装のせいもあってそんなに年をとって見えないしね。そんなに大きくない体型も当時の兵士らしい。ぼくは『6月の蛇』のレビューのとき、俳優塚本晋也をややけなした。とくに声がねぇ…と書いた。そしたら、あの声は女性からするとセクシーなのに…というコメントをもらって「すんませーん、わかってなかったス!!」という気分になった思い出が。他の役者、不気味な人形みたいな森優作もいいけれど、やっぱり伍長役の中村達也がいい。まぶかに帽子をかぶって、黒っぽくよごれていても、ひときわ悪そうだけどカリスマティックな存在感がある。若い頃の菅原文太成田三樹夫的なかおりもある。そんな濃いめの役者たちにかこまれた主人公はざっくりいえば観客のよりましになる「ふつうの人」だから、俳優としてニュートラルになれる塚本晋也でよかったのかもしれない。