裸のランチ


<予告編>
1991年公開。これ当時見に行った覚えがある。ストーリーはほとんど覚えてなくて、ぬるぬるしたクリーチャーのビジュアルだけ頭にあった。で、久しぶりに見返したら、また同じものだけが頭に残った。それも当たり前で、乱暴にいってしまえば、そもそもストーリーはなかったのだ。
原作のバロウズ作『裸のランチ』を読めばわかる。1954年出版、アメリカ文学のクラシックだからいまさら解説も野暮だけど、まぁ物語的のものからは流山と逗子くらい離れてるからね。やっぱり詩に近いものなんだろうと思う。予告編の前半に、リアルのバロウズとその作品製作のイメージ映像がある。作家の意図を排して偶然性をとりこむ、ファインアートから引用した手法で、言葉の予想できない組み合わせからイメージが次々に立ち上がる。そうやってうまれた文学は、典型的な「映像化不可能といわれた原作!!」なのだ。
バロウズファンだったクローネンバーグは作品世界を無理に何かの物語にしたり、逆に映像詩的なイメージの羅列にしたりはしない。そのかわりバロウズ自身を主人公にして、彼の伝記を微妙におりこみ、作家がじぶんの作品世界の中に迷い込む話にした。作品の外に出たようでも、たいていは薬でもわもわになった彼の眼に映るものは、やっぱり作品の中とおなじ、ぬるぬるで淫靡で簡単に破壊される身体がそこらじゅうでうごめく世界だ。


繰り返し現れるのが奇妙に偉そうな、有機体としてのタイプライターだ。なんのことかだけど、ま、画像の感じです。虫でありつつ性器の直喩であり、妄想めいた秘密の支配組織の指令を伝えるメッセンジャーでもある。なんで相棒がタイプライターのクリーチャーなんだ…….? もちろん彼が作家になるべき人だからだ。彼はうんざりしながらも、このクリーチャーに向きあわなくてはならない。混乱した世界の果てに、ラストでクリーンな頭になった主人公は物語の発端となった出来事を繰り返す。他人に物語るために。彼はじぶんは作家なんだと腹を決めるのだ。まったく雰囲気は違うんだけど、一人の男が作家になるすがたと彼が描く世界をきれめなく見せた、岡本喜八の『江分利満氏の優雅な日常』とある意味似ている。
というわけで、この映画については原作をさらっと読んでおいたほうがたぶん楽しめる。それと簡単な伝記とね。どちらも知ってること前提の映画です。タンジールの迷路じみた街路と汁気たっぷりのクリーチャーのインパクトで見れるけれど、それでもね。わけのわからん展開も、ごった煮的イメージも、人物も「あれのことか」と思いながらなら、にやにや笑って見られる。
ちなみにテリー・ギリアムが同じようなジャンキーの作家のめちゃくちゃな日々を描いた『ラスベガスをやっつけろ』は間違いなくこの映画を参考にしてる。わざわざよく似たクリーチャーをワンシーンだけ(主人公の幻覚ってことで)見せているくらいだ。あいさつみたいなものだろう。