かいじゅうたちのいるところ


<予告編>
原題はwhere the wild things are 。映画をみると絵本ではおこらなかった疑問がわきあがってくるだろう。wild things ってなんだ。 <かいじゅうたち>という日本語訳は1975年の絵本の新訳のときに翻訳者が悩んで決めたそうだ。絵本のは怪獣っぽく見えなくもない。動物の要素がありつつ、でも人の要素もある。日本の童話でいうところの愛敬ある鬼に近いよね、あれ。とくに疑問もなく「あれ、かいじゅうね」とうけいれた。映画の<かいじゅう>は、立ち姿も、表情があるところも、対話ができるところも、名前も、ぐっと人に寄せてある。怪獣より「獣人」という感じだ。
獣人というと、シャルル・フレジェという写真家のWilder Mann という素晴らしくおもしろい写真集があった。ヨーロッパの古代的(非キリスト教的)な祭祀のコスチュームだ。獣の皮をそのままかぶったり、植物で巨大なかぶり物を作ったり、「人のすがた」の想像力が広がるようなフォルムのかずかずだ。
この映画の<かいじゅうたち>も3mくらいのかぶり物。ちょっとWilder Mannぽく、あまりキャラ的な愛嬌ある顔じゃなく、アーシーな色の体毛の素材感がやけにリアルに表現されている。シルエットは顔がでかくてまるっこく、足がちょこちょこしている。絵本のかいじゅうは4足歩行の動物がもつ、上肢が湾曲した足をくっつけてるのに、映画ではまっすぐの足だ。このバランス、つまり赤ちゃんのシルエットだ。絵本ではより動物に近かったかいじゅうは、人間にちかく、しかもマックス少年とそんなにちがわない成熟度に感じられるのだ。キャラとしてはおっさんやおばさん的ではある。でも無意識の幼稚さがシルエットからつたわってくる。一説だとはじめは頭の部分にメカを仕込んで目が動いたりするようにしていたのに、重過ぎて中の人がまともに動けないからあきらめて、顔はCGにしたそうだ。動きに説得力があまりないまま(力を出す前のタメがなかったり)ダイナミックに飛びまわったり暴れまわるかいじゅうだ。

絵本のかいじゅうたち
お話は想像してたみたいなかわいい物語じゃなく、いやに物悲しいものに変貌していた。原作では、少年は想像の中で好きな自分になれるし、世界は自分の好きなようになってくれる。そんな全能感をみたしてくれる場所が「かいじゅうたちのいるところ」なのだ。かいじゅうたちは、すくなくとも第一作ではそんな世界の要素。物語の冒頭でマックスが追っかけ回す犬といっしょだ。
映画のかいじゅうは、言葉やふるまいでマックスになにかを考えさせる他者だ。そしてマックス自身でもある。みた人なら誰でもわかるように、かいじゅうの主人公キャロルはマックスの鏡像だし、現実世界でのセリフがかいじゅうたちのあいだでもくり返される。かいじゅうたちの世界も、マックスの現実世界みたいに孤独感や「理解されない自分」に満ちている。マックスの不安を穴埋めするみたいに、女性のかいじゅうKWはいつもやさしくつつんでくれる。彼女とマックスのシーンはマックスの赤ちゃん返りへの願望のあらわれみたいだ。ラストでお母さんとちょっとだぶらせたりもしている。

物語の最初はマックス少年の淋しさが強調される。お姉ちゃんはボーイフレンドたちと遊びに行ってしまうし、シングルマザーのママは家でも仕事、かと思うと恋人を家に呼んでいる。かれの大事な女性たちをよその男が奪っていくのだ。かいじゅうたちの世界でマックスはいちおう王様になる。でも全能とはほど遠い。むしろ無力さをつきつけられるのだ。映画会社は監督の作ったバージョン1があまりにも子供向けじゃなさすぎたので、GOをださなかった。公開版でもさびしさや満たされない感じはくっきりとある。そんな<かいじゅうたち>ってなんなんだろう。最初の疑問の答えは監督のインタビューにあっさりとあった。この映画でwild things はwild emotion のことだ。
少年の、自分でもよく分からない、とめどなくあふれるイマジネーション。ママやお姉ちゃんが離れていってしまうという不安を、暴れてあたりをめちゃめちゃにすることでしかあらわせない衝動。そんなじぶんの中のワイルドななにかのことなのだ。監督スパイクは、原作者センダックともやりとりしながら、そういうふうに物語をふくらませていった。監督は絵本が「想像力」として描いたかいじゅうたちのいるところを「夢の世界」として描いたように見える。いいも悪いも現実での思いが侵入してくるのが夢だ。さびしい気持ちも無力な自分もどうにもならない衝動も夢の中にあらわれてる。

見る人によっては「なんだよ〜しめっぽい話にしちゃって」とも思うだろう。曲も独特の繊細さがあるしね。 でもレビューを書くためにこうやって思い返すとけっして印象わるくない。ひとつには少年マックスの、ちょっとクレイジーなくらい衝動的なこどもの演技がみごとなのだ。それでいてさびしさが常にある感じもひしひしと伝わってくる。この少年はきてる。手持ちカメラで妙にドキュメンタリックに撮る、ランス・アコードのカメラもすごくいい。彼はスパイクやフランシス・コッポラの作品なんかでカメラを担当している。ファンタジックな風景のなかじゃなく、実在の落葉樹林や沙漠や岩山や海岸で撮った風景は、オーストラリアの各地でロケしたもの。絵面的にいうと、最近のある種の日本アニメみたいに、どうみてもアンリアルなキャラクターたちが実在感あふれる空間でうごきまわるタイプだ。
でもなにより、監督の、マックス的少年への視線がいいんだよね。どうしてさびしくて、どうしてむしょうに腹がたつのかもうまく伝えられない。暴走するイマジネーションはだれにも共有してもらえない、自分だけの王国になってしまう。でもその王国を、監督は価値あるものになりえるんだ、それはクリエイティビティの芽なんだ、と伝えようとする。
かいじゅうの一人とマックスが林でたおれこむと、ほかのかいじゅうたちがジャンプしてきてどんどん積み重なるシーンがある。ああ、あった。いつのどこかは覚えていないけど、ふざけて何人もで重なりあって。体温と息づかいと重さとが、ことばにならない、あれこれ考える必要のない一体感をあたえてくれた。この作品のなかでも一番好きなシーンだ。