ル・コルビュジェの家


<公式>
ストーリー:ブエノス・アイレス郊外のコルビュジェ設計の名建築に住み、自分のデザインした家具は世界中で売れているデザイナー、レオナルド。いうことなしの人生みたいだけど、トラブルが発生する。隣家にひっこしてきた男がリビングの真向かいの壁に窓を開けてしまったのだ。プライベートが丸見えになると抗議にいったレオナルドだが、隣人ビクトルは強面でひとすじなわでいかない感じの男。思ったとおり、ああだこうだいっていつまでも窓はふさがらない。レオナルドの家のなかもぎくしゃくしはじめる…...
2009年公開のアルゼンチン映画、この重要なキャストが、舞台になっている家だ。原題の「となりの男」を、邦題では「コルビュジェ」の名前をつけてずばりそっちを売りにしている。公式サイトでもていねいな解説だ。コルビュジェ、ごぞんじの方も多いですよね。これです。いやちがいます。
家は、1954年に建った住居+歯科医院だ。場所はブエノス・アイレス中心部から、ラ・プラタ河を海側にくだったところ。こんな家だ。 しかしこの街の整型具合もすごいね。ほぼ東西南北の道路が十字に交差して、45度傾いた正方形の市街地がひろがっている。

道路側が診療所で、奥が住居。1階はコルビュジェらしいピロティ空間でガレージとスロープ、お抱え運転手用の部屋があるだけで、診療所と住居は2〜3階にある(正確には診療所は中2階的な位置)。図面をみると北側に開口やテラスが開いている。これべつにアトリエみたいな目的じゃなく、単に南半球だから太陽が北にあるだけのこと。ラ・プラタは夏でも30度くらい、冬でも0度以上というすごしやすい気候で、屋外も気持ち良さそうだ。建物はテラスがあったり開放的で、でも道路にあけっぴろげになりすぎないようなファサードのスクリーンがかっこういい。
しろうと目線でみると、間口がせまくて、道路側にビジネスの空間があって、中庭をとおると奥に生活の場がある、というつくり、京都の町家みたいだ。まあ、密集した都市のすみかたという意味では同じだからね。解決方法がどことなく似てきてもおかしくない。そして奥と手前はスロープでつないである。これは彼の作風で、日本ではA・レイモンドが軽井沢で建てた「夏の家」のスロープがコルビュジェのパクリじゃないかという話になったこともある。このスロープも映画のなかで効いている。屋内メインの映像のなかで上下のうごきや奥行きがうまれているのだ。

中庭には大きな木がうわっていて、屋内では幹しか見えない。なんの木かはっきりしないけれど、コルビュジェは「ポプラ」と指定したそうだ。ポプラというと北海道あたりでよく見かける(東京だと調布の国道20号から見えてた。あれ今でも見えるのかな?)細いシルエットが思い浮かぶ。でもふつうに枝が広がる種類もおおい。南米でも植えられているみたいだからその1種かもしれない。2階のテラスには気持ちいい木陰をおとしているはずだ。
この家は、ヨーロッパ的な街の建物らしく、道路側以外の壁はたぶん隣家と共有だ。で、そこがドラマのタネになる。男が窓をあけた壁は、レオナルドの家の窓から、ちいさな庭をはさんで3mくらいしかはなれていないのだ。これはさすがに気になるかもな!おまけに壁はかれの家の躯体とつながっていて、工事の音も直接ひびいてくる。いっぽう男は「部屋にあかりとりが欲しいんだ」という。あかるい側がぜんぶ壁だとしたらしょうしょういやだろう。こちらも無茶をしているわけでもないような気がする。
それからこの建物、診療所と住宅というふたつの場所がうめこまれているから、プライバシーの境界も少しわかりにくいところがある。1階の入り口にドアがあって、いちおうそこを開けないと家には入れないんだけど、写真をみればわかるようにドアの脇は壁になっているわけじゃない。ファサードの透明感をそこなわないように、1.2mくらいのフェンスがあるだけなのだ。診療所時代は、患者はいつもドアをあけてもらっていたんだろうか。スロープまでは庭みたいなもので、そこまでは自由にはいれて、住宅の入り口に境界があったのかもしれない。その入りやすさをつかれて他人の侵入をゆるす怖さもある。物語ではその危険が現実になるのだ。

物語は、そんな空間のプライバシーの侵害と、生活そのものを侵害されていると感じる主人公の神経のすりへりをシニカルな感じで描いている。隣人のビクトルは、すくなくとも日本人的感覚で言えば粗暴そうに見えるし、インテリ+国際派+クリエイター!のレオナルドからすれば、見下しつつもびびるような相手だ。そのあたりはわりと典型的な「ちがうクラスの人間がふれあうことのむずかしさ」モノといえる。主人公もその家族も明白に感情移入できるような人たちじゃなく、それどころかけっこういやらしい面をさらしている。悪人面に見えたビクトルはそれほど悪意があったわけじゃないし、微妙にクリエイティブな面もあることがわかってくる。でも「実はわかりあえる人だったんだ!」とナイーブにおとしこむわけじゃなく、主人公に迷惑な存在であることにはかわらない。ふつうの人間関係ってだいたいそういうものだよね。観客はどちらにも肩入れできずに、でも自分たちにも似たことが起きがちな日常のさざなみ(だけど心理的にはすごく大きなウエイトを占めたりする)をのぞき見する感じだ。ちなみに製作にシトロエンの名前がでてきて、だからとうぜん、主人公は大型車のC6をころがしている。