ザ・マスター


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PTAの重厚シリーズ。神話的な人物伝を、完璧な構図と力強い色彩設計のすきのない画面で描き、ほとんどアナクロといっていいくらい荘重だった前作『ゼアウィルビー・ブラッド』。続いて、これも一貫してシリアスな映画だ。『ブギーナイツ』や『パンチドランク・ラブ』にあったみたいな人間くさい笑いのノリや、トリッキーな才気のへんりんはもはやほとんどない。40代前半にしてはやくもどっしりした王道の横綱相撲だ。『ゼア』のダニエル・デイ・ルイスの荘重かつまがまがしい演技につづいて、この映画ではホアキン・フェニックスが輪をかけてまがまがしい男を最後まで演じる。ほとんど深刻な映画だ。
ストーリー:第二次大戦に従軍した結果、精神のバランスをくずして普通の仕事につけなくなったフレディ(ホアキン・フェニックス)。彼はサニタリー用品など飲み物じゃないケミカルをブレンドした破壊的カクテルを作るのだけが特技だった。ふとしたことで新宗教コーズの創始者、ランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)に(カクテル込みで)気に入られたフレディは彼の用心棒みたいな立場になる。粗野な彼を気に入らない内部の人間も多かった。ドッドのつきっきりのセラピーをへて彼は教団に付き従うようになっていくがやがて…….

この映画、戦後アメリカ有数の新宗教サイエントロジーとその創始者ロン・ハバードをモデルにしてるということで製作中から話題だった。主人公フレディが付き従う宗教的カリスマ、ランカスター・ドッドは、いうまでもなくハバードと設定がいくつかかぶっているし、監督も著作や本人の評伝を参考にしたといっている。でもまあ、そこはそれだろう。忠実に再現してスキャンダラスな話題をふりまくメリットは作家のほうにはあまりない。いまや巨匠になりつつある監督にとってはね。だいだいマグノリア』でトム・クルーズと仕事していたりする関係なんだし、敵対するつもりももちろんないだろう。
『ゼア』や、『パンチドランク・ラブ』もそうかもしれないけれど、PTAの作品にある「モンスターの哀しみ」みたいなテーマ。つまり決して弱者ではなく、ある部分なみはずれた、どこか寓話的ともいえる男が、そのせいもあってふつうの人たちと愛し愛される関係には決してなれない孤独、この映画でもそれはくりかえされる。面白いのは、ほんらい怪物的であってもいいはずのカルトの創始者、ドッドは、むしろ人間くさい、ヒューマニスティックなところも、欲望にながされやすいところも、痛い所をつかれるとかっとなるところもある、そんな人物像で、彼にひかれる取り柄のない男、フレディのほうが、ホアキンの演技もあって、モンスター的なポテンシャルを感じさせるのだ。だから、ひょっとすると教団に入り込んだフレディがやがて怪物性を発揮して教団の内部を喰いやぶっていく……..的展開すら想像しそうになった。けれどたぶんそうはならない。展開はみてのお楽しみだけど、2人はそれぞれにシンプルに相手を求めあうのだ。

観客からすれば、なんでこんな社会的アウトサイダーを成功しつつある教団創始者が気にするのか?とも思うだろう。モンスターと言ったけど、社会的には弱者なのだ。ひとつは、この物語の2人は、ひょっとするとロン・ハバード的人間の人格を物語上ふたつに分けたものかもしれないということだ。だから相手は好きだろうと嫌いだろうと不可欠な存在になる。それでも社会的にステップアップしていくために、自分の中のなにかはふりすてる必要がでてくる…..そんな物語だと思えばわかりやすい展開だ。そうでないと、後半の「離反」以降の流れがちょっと唐突すぎるしね。
弱者を気にかけるといえば、この映画を見ていて、僕が思い出した人がいる。彼はベンチャー企業のオーナーだった。勢いがあった時期の、屋形船を借り切ったちょっとしたパーティーの片すみに僕ももぐりこんだことがある。そんな彼がなぜか、アル中で生活もこわれたような年長の知り合いをずっと会社に置いていた。もちろんロクな仕事はできない。たしか会社に寝泊まりしていたはずだ。聞いた話だとそんなに恩義があるわけでもない。でも、ふと思った。彼はそのおっさんの弱さをこそ必要としていたのだ。弱者だからそばに置いていた。勢いがある経営者でも強者だけに囲まれていられないのかもしれない。弱さは唾棄されるものだとされる。でも弱さこそが必要とされる、そういうこともあるんだなと思ったものだ。余計なオチだけど、その経営者は何年かあとに知人の債権もふみたおして夜逃げしてしまった。
ま、そんな話はいいんだよ。映画の中で『ブギーナイツ』みたいに、教祖夫妻の大きな家に拡大家族的に信者たちが集まるシーンがある。そこでなぜか女性信者だけが全員全裸になるのだ。あれは悪意にみちた、なかなか強烈なヌードシーンだった。ちなみにこの映画でも長回しの印象的なシーンがある。あばれて拘置所に入れられたフレディを、となりのセルに入ったドッドが説教し、フレディがぶち切れるシーンだ。これは『ブギーナイツ』的なテクニカルな長回しじゃなく、演技を見せつけるための長回しだ。こんなところにもPTAの作風の変化を感じる気がする。