ブギーナイツ


<予告編>
ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)の1997年公開作品。ひさしぶりにみたけれど、いい映画だなあ。好きだこれ。「映画を撮ることの映画」シリーズのひとつ。…ふと思ったんだけど、たいていの映画作家たちは、わりとじぶんたちを「弱者」の立場に見るんじゃないだろうか。弱いものたちが、たとえば映画会社や支配的なプロデューサーの圧力にさらされながら、自分たちの思いをなんとか形にする、そんな連帯感みたいなものがこのジャンルにはいつもただよっていて、なんともいえない雰囲気をかもし出しているような気がする。この映画は中でもさらにマイナーな1970年代後半のLAのエロ映画シーンが舞台。80年代に入ってエロの中心はお手軽なビデオに変わり、よき時代のスターたちは……?というお話。だからか、よけいに監督の視線はやさしい。 
ちなみに、舞台にもなっている(であろう)LA北部のSan Fernando Valleyは、70 年代からポルノ産業のメッカになっていき、最盛期はPorn ValleyとかSan Pornando Valleyとか言われる勢いだったそうだ。しかしポルノ産業のメッカになる地区、ってどういう感じなんだろう。街的に。 オープニングやところどころで出てくるラテン系の男が経営するクラブはここ、お話の大事な舞台になる郊外の豪邸はここだ。それっぽいなあ。プールサイドにはトロピカルプランツと一緒にキョウチクトウの白い花が満開だ。

この映画、「時代にツッコミを入れる」要素もあって、公開時の20年前の風俗を、くすっと笑う視線込みで懐古している。この視線も、時間がたてば振り返っている「現代」そのものがツッコミの対象になることだってあり、そうなるとどっちが笑えるかわからないというみっともなさが出てきてしまう。でもこの映画の場合、古さは感じない。風俗にしてもファッションにしても、出てくる人たちが、ショービジネス界の、それも断固としてB級の世界の住人たちで、その味わいも含めてていねいな作り込みなのだ。
風俗だけじゃない。監督は当時のエロ映画やB級映画をていねいにリサーチしていて(そもそもこの映画は彼が10代の時に撮ったドキュメンタリー風短編がベースなのだ)、映画内映画で出てくる珍妙なエロアクション映画、素人が撮ったドキュメンタリーも、フィルムの質感や平板な照明の感じやアクションの切れの悪さ、セリフ回しの下手さ(エロ男優エロ女優だけに)まで、じつにていねいに再現してる。監督はテレビ業界人の息子で、タランティーノとはまた違った意味でこの世界に子供の頃からなじんでいたのかもしれない。
つまりすべて安易に笑いのネタにしている感じではけっしてないのだ。その時代にまちがいなく愛されたものたちを、彼もまた愛している。結果的にちょっと笑えるものだとしてもね。選曲ももちろん泣ける。なんか、ドラマ『あまちゃん』の屈指の名セリフ「ださいくらいなんだよ、我慢しろよ」の精神に通底するものを感じるよ。

お話は、序盤はそれなりにハッピーで楽しい。持ち物がでかいのが取り柄の若者、エディ(マーク・ウォルバーグ)がポルノスター"ダーク・ディグラー”になっていくサクセスストーリーだ。妙に支配的で病んだ母親から逃げ出したエディは、おなじく居場所が見つけられずにいた少女”ローラーガール”(ヘザー・グレアム)と、大物監督ジャック(バート・レイノルズ)アンバー(ジュリアン・ムーア)のカップルの家に転がり込んで、ファミリーの一員になる。ポルノスターの先輩リード(ジョン・C・ライリー)はすぐにエディの親友になる。ジョンはこのブログでいえば『おとなのけんか』の金物屋役で絶妙な味わいをかもしていた彼だ。でも良き日は長くはつづかない。その後は絵に描いたような転落のストーリーになる。『マグノリア』と似ていて、みんながそれぞれに涙にくれる感じの展開だ。なんていうか「素材」はつらいよね。この話で言えば俳優だ。時代が変われば、料理人である監督は今風の俳優を見つけてそれなりの撮り方をしてしのぐ。でも俳優、とくにポルノスターなんていったら素材そのものだ。アスリートと同じだ。それだけに成功者が得る物は料理人よりおおきかったりするわけだけど…..。
ちなみにだけど、監督ジャックのバート・レイノルズは、30代の頃は「全米一のセクシー男」で、女性誌でヌードを見せたりしていたセックスシンボル。その彼が撮る側、育てる側の役をする味わいね。いい役柄だったと思うんだが、バートは監督が気に入らず、次作以降は出演を断わってしまったらしい。

この映画、若いときならではの、監督の才気のひけらかしもちょっとある。とくに長回しだ。長回しというのは僕によれば大きく2パターンある。1つは役者に段取りを越えて芝居させようとして延々とカットをかけないタイプ。『ぐるりのこと』の10分近い夫婦のエモーショナルなシーンはその代表だし、『人のセックスを笑うな』も、監督がそんな意図でなかなかカットをかけなかった。それとは逆に『ザ・ロイヤル・テネンバウムス』にある、集団劇でカメラの中心人物が入れ変わっているのにあえて1カットで撮り続けるテクニカルなパターンがある。ブギーナイツ長回しも完全にそれで、人の出し入れ、カメラの動きも入念に段取って、ちょっとあざといくらいにカットを続ける。オープニングは夜の街に車がやってきて店の前に横付けするところから、店内に入って人ごみのなかで主要な登場人物が一通り紹介されるところまで、4分弱の1カット。それからパーティーのシーン。これも人物がつぎつぎ入れ替わり、同じ水着のおねえさんの尻がなんども画面を横切ったりしつつ、しまいにはプールに飛び込む人を水上と水中、カットを割らずに撮り続けていたりする。ここまでくると「なんのために……」とさすがに思わないでもない。1カットかどうかなんていうこと、たぶんほとんどの観客は気にしないはずだからね。でも無意識になにかの効果は与えるのかとも思う。『ゼロ・グラビティ』の序盤の超長回し。監督たちがそれにこだわるのは、なにか独特の映像的気持ちよさというか、たしかにあるからかもしれない。