ゼロ・グラビティ


<公式>
見に行った。IMAX3D。ツタヤ旧作なら22本借りられる。でもこの映画、1年後にツタヤで22回借りるより劇場で1回見る映画なのは間違いない。
じつをいうとあまり書くことがないのだ。映像のプロや宇宙技術に詳しい人なら、撮り方のこと、科学ネタのリアリティのこと、いろいろ言いたいこともあるだろうけど……...「体験」って話してもしょうがないところがあるじゃないですか? 友だちの旅行話がつまらないのと一緒でそこはそれぞれだから。
<追記> 宇宙開発の専門家による解説&突っ込みのサイト。こういうことよ。ふむふむ、リアルな道具立てで思い切りエンターティメントに振っている感じなのかな。
体験させるための映画。この映画は思い切り体験のほうに振り切った。ここまで凝縮し、完成度をあげられてしまうと、例えば『エンター・ザ・ボイド』の主観映像もなんだか素朴な表現に見えて来てしまうくらいだ(ま、べつの魅力があるけどね)。

もちろんストーリーはある。観客のエモーションを乗せて最後までつれていくためにね。お話の構造は、昔からあるアメリカ的アクションの定式だ。次々に居場所を、乗り物を変えて主人公は進む。新しい場所にたどり着いてほっとしたかと思うとそこも安住の地じゃなく、次の危機がやってくる。ちょっと盛り過ぎなくらいにね。危機はいつでも時間との勝負.....

キャラクターもわりとベーシック。女の弱さを見せつつ自分で道を切り開くヒロイン。彼女が宇宙服を脱いだ瞬間、『エイリアン』のシガニー・ウィーバーが浮かぶだろう。どう考えてもオマージュだし、思い出させるように作っている。ただあそこまで鉄の女ふうじゃなく、もろさやダメさもかいま見せて共感しやすくチューンしてある。ひっきりなしに冗談をいいながら、彼女を守り、生きる道を教えるベテラン飛行士は理想のパパ的キャラでありつつ、チャック・イェーガー以来の宇宙パイロットの典型でもある。ゆるぎないジョージ・クルーニーの笑み。この話は、ちょっとした「象徴的な父からの独立」モノ(これもアメリカ映画の定式の一つだ)の香りも隠れている。

つまり道具立てには別に新しさはないのだ。あるとすれば、場面を限りなくミニマルに切り詰めて、「お話」を成立させるための部分はほとんど短い会話だけに凝縮したことだ。映画はプロローグもエピローグもなくいきなり本編がはじまって、本題が終わったところでさっくりと映画も終わる。『おとなのけんか』と同じ,ほぼ物語内の時間経過と映像の時間が同じリアルタイムの話法だ。孤独に生への闘いにいどむ、という意味では『127時間』も共通だけど、さすがに谷間と石だけで最初から最後までは通せないから、あちらは前段も、途中の口直しもいろいろあった。こちらはまったく寄り道なしだ。監督とカメラマンの前作『トゥモローワールド』をさらに徹底したかたち。

で、残りのリソースはすべて映像に注ぎ込まれたわけだ。ロケは1箇所だけ、あとは全部セットもろくにないスタジオだ。その辺はメイキングの動画を見たほうが話がはやい。それにしても宇宙ものの映画のなかでは道具立ては相当地味なんだよね。強力なロケットも巨大な宇宙船も特殊な武器もなにもない。工場のプラントみたいなステーションと、貧弱なロケットとパラシュートだけをそなえた帰還用のカプセルと、あとは宇宙服くらい。遥かな銀河にいくわけじゃなく、地上600kmだ。きっちりと描き込まれることでそんな地味な要素がどんなスペースオペラよりも派手なスペクタクルになった。はやぶさよろしく分解して燃えながら大気圏に突入する宇宙船があんなに格好いい絵になるんだから………ただそんな映像にのめり込む観客を「お客さん」に引き戻してしまうのが音楽だ。あれあんなに必要か? 実際の音風のSEをもっと突っ込んで作るか、エモーションのコントロール用に使うなら、『ゼアウィルビー・ブラッド』めいた無調性の音楽でもいいくらいだ。