ビフォア・サンライズ/ビフォア・サンセット


<ビフォア・サンライズ予告><ビフォア・サンセット予告>
恋愛もののクラシックをいまさら見る。ま、9月だし。まずは『ビフォア・サンライズ』。「ヨーロッパに旅に出たアメリカ人青年と、列車でふと出会ったフランス美女が、初夏のウイーンの一夜、恋に落ちる・・・」なんて、なにその安直な設定‼ と言われそうだ。でもめんどくさい話がけっして苦手じゃない監督リチャード・リンクレイター(ウェイキング・ライフだけの印象・・・)は、ちゃんとめんどくさい男女の、ぎごちなくて、それでもまっすぐ恋に落ちる瞬間を映画にした。
男、ジェシーは「僕はこの世に歓迎されずに生まれた。「人生、招かれないパーティーに押しかけてる感じ」なんていう、あまり自信のない青年。
女、セリーヌは「旅先で出会ったアメリカ男に一目惚れしてどっぷり」的な、単純な恋する女にはなりたくない、お勉強ができて、その分いろんな思想に影響されて、ちょっと背伸びしたタイプ。
ストレートな恋の物語を解説委員みたいに説明するのもヤボだし、細かいとこはやめとく。イーサン・ホークが純情そうな、いかにも青い若者にはまっているし、ジュリー・デルピーは画面越しにみるとどこか寂しい顔相にも見えるけれど、たぶんそのころの彼女の実物をみたら、完全に妖精にあったと思うだろう。この映画は、とにかく物語が完全に一本のラインだけで(つまりサブストーリーだとかサブキャラクターの物語だとかいっさいない)、時間という車に乗って二人でドライブしている雰囲気だ。次々とウイーンの街の人たちに出会うんだけど、それも車窓にあらわれる風景みたいなもの。あくまで二人の空気感だけが描かれている。せいぜい12時間しかもっていない2人に寄り道しているひまはないのだ。そうできるのはいいね。じっさい、もし自分がそんな限られた時間におかれたら、何時間か、たとえばとりあえず映画を見に行って無難に時間をつぶしたりしてしまわないだろうか。向き合い続けるって大変だもの。2人は時間を決して「つぶし」たりせず宝石のように大事に使うのだ。終盤、わかりやすい暗示ににこっとしてしまう。おまえら、キメたな...と。まぁある種の奇跡の物語なのはまちがいない(と思うんだけど!)

ビフォア・サンセット』は、それから9年後のお話。男はあの夜の出来事を小説に仕上げ、ヨーロッパでも出版されることになってプロモーションツアーにやってくる。環境NGOで働く女はパリにやって来た男のトークショーにあらわれる。再会した二人は、飛行機までの短い時間、街を歩き、あの夜のこと、それからのことを語り合う...
完全に『サンライズ』を見た人のための物語で、ジェシーセリーヌが「あの二人」になってる観客じゃないと、多分あまり魅力的に見えない。だってこれ「ぼくたちはあの頃のきらめきを失って、それでも...」というお話だからね。設定はともかく主演二人の年の取り方が微妙な味わいだ。イーサン・ホークは額に深いシワがより(しょうがないのでセリフで突っ込ませている)、なんだかやさぐれた顔つきになってるし、ジュリー・デルピーは一瞬の奇跡ともいえる妖精めいた透明感が消え失せると、寂しげな顔立ちだけが残った。もちろん「素敵に年輪を重ねて...!」て見る人もおおぜいいるんだろう。なんて言ってもこの2人なんだからな! そしてセリーヌは背伸びしたちょっとめんどくさい女からどことなく痛い女に変わった。最初はエレガントに微笑んで現れたのに、話しているうちにジェシーを当惑させる。今回は主演の二人が脚本に加わって、より自分たちのキャラクター作りに深くコミットしてるんだから、承知のこの方向性だ。
彼女がたんなる魅力的な熟女へと開花するんじゃなく、こじらせ系になったことで、この会話だけの90分がスリリングなドラマとして成立したということはまちがいない。満たされた優雅な笑みを浮かべるゴージャスなバリジェンヌが現れたら、ジェシーはともかく観客は退屈するだろう。そんなファンタジーはどこかのペーパーバックにおまかせだよ!
男ももちろんそれなりに深い悩みを抱えている。それでもナイーブだった青年は少し含みのある受け応えを身につける。あの日のこともそれなりに客体化できたわけだ。お姉さんだった女はうまく成熟できずに男に追い抜かされたみたいに見える。自分の複雑な感情を久しぶりにあった彼にそのままぶつけてしまうのだ。それでもセリーヌは最後に自作の歌を弾き語りで聞かせる。ジュリーが実際に作ったという歌だ。その歌詞では、それまでの会話がうそみたいに素直な気持ちをことばにしている...みたいに見える。でも彼女は「あなただけのための曲なわけないじゃない」と言ってしまう。

9年前。まだほんの若い時に、特別な、人生の感情的な頂点を経験してしまった二人は、これから続く長い人生にもうこの一日以上の輝きがないことがわかってしまっている。何もない人生よりは確実に幸福だろう。でもクライマックスが早くおとずれすぎたことがかれらを絶望させる。そんな物語だ。
2本の、会話だけの映画。この会話を飽きさせない、ん?と思わせるものにしているのは「うそ」の使いかただ。言わずにいることや、気持ちと反対のことや、本音を言わないための話題や、自分の本心にたいして「そうあらねばならない」とおさえこもうとしていう、そんなセリフで会話は埋め尽くされる。そして見ているぼくたちにはそれらがすべて、手に取るようにわかるのだ。だからそのうそは観客をだますトリックじゃない。「うそをつく」「反対のことをいう」という感情表現なのだ。そういうふうにできている。
セリフを機能的に使う、つまり主人公の意思とか感情とか伝える情報を誤解なく観客に理解させようとするドラマでは、こういう会話はできない。会話の行く先そのものをドラマにしたこの物語だからこそそれができるんだと思う。