アメリカンビューティー


<予告編>
この映画がアカデミー作品賞を取ったのはこころなしかふしぎな気もする。あらためてみたけど、そこまでか?  くさった(でも社会的にはそこそこOKな)人生を送ってきたおっさんレスター(ケビン・スペイシー)の解放と再生の物語を軸に、アメリカ的成功物語の嘘くささを描いたおはなし。
前に見たときはアメリカ映画の「ニュータウンの虚飾モノ」の一つに入れていた。「ニュータウンの虚飾モノ」ってなんだ? …まさにごもっとも。これ勝手にぼくが決めているジャンルだし。ニュータウンというもの、そもそも大都市の中心部が移民や経済的困難者たちが集まる場所になって、アッパーミドルにとって居心地が悪い場所になったことの反映、という部分がある。だからノイズの排除されたコミュニティという性格があって、そこには当然選別と排除がある。極端な形になったのが、街全体で高級マンションのみたいに訪問者をきびしく選別する、いわゆるゲーテッドコミュニティだ。こういう街はフェンスで囲まれ入り口にはガードマンが常駐する門がある。
それでもニュータウンの住民は週末になれば家族で車に乗ってシアターにでかける、映画観客のボリュームゾーンだ、だからもちろんハッピーな映画の舞台になってきた。グレムリンだってホームアローンだってE.T.だって、『トイ・ストーリー』だってそうだ。だけど映画作家の中には、おもてに出ない排除の論理や、住民の同質性(そしてその裏にある同調圧力)に居心地の悪さや息苦しさを感じるタイプもいる。『シザーハンズ』がたとえばそうだ。異質な存在をふつうの人々が身勝手に受入れ、利用し、やがて被害者の顔をしながら排除する。その舞台はニュータウンだ。それから『トゥルーマン・ショー』。この舞台はかつてニュータウンの新しい潮流として有名になったところ。無機質なのっぺりした街じゃなく、「ストーリーのある街」が売りだ。でも映画ではそこを舞台に、すべて演出された虚偽の人生と虚偽の世界を描く。後は『シリアル・ママ』なんかもニュータウン的ライフスタイルをパロディとしてブラックな笑いの対象にしている。そしてそんなニュータウンの末路まで今や描けてしまう時代になった。それが『グラン・トリノ』だ。日本でいうと、正確には団地が舞台だけど『空中庭園』はニュータウン的虚飾が正面からとらえられていたと思う。 …というタイプのひとつといえなくもない。この映画もね。アッパーミドルが住むニュータウンが舞台ではあるし。

ただあれだ、住民であるレスターは、さっき「解放の物語」といったけど、じつはそもそも猫をかぶっていただけで、十分解放されているおっさんなのだ。自分の欲望に忠実でそれに対して、社会的な規範を内面化して自己を抑圧する、みたいなこともない。会社でもありえないような暴言で気に入らない相手を罵倒するし、パーティーでは平気で雰囲気をぶちこわすようなことをするし、隣の息子が上物のマリファナをちらつかせると喜んでそれに飛びつく。娘の可愛い同級生を一目見ると、ふつうに色目を使うようになる。なんだろう、家庭の崩壊を描いてはいるんだけど、その渦中の父はちょっとファンタジックなまでに自由なおっさんでもあるのだ。というか、死を直前にして(彼が死ぬことは最初に宣言される)いきなり解放されたのか? そういうふうでもないんだけど…
この映画、「ランドスケープ・アーキテクト」という言葉が出てくる数少ない(ぼくはこれしか知らない)作品だ。ちょっと皮肉なのは、売れない不動産セールスウーマンである妻キャロラインの口から出るのだ。中古物件を見学客に売り込みながら、「庭を変えたかったらランドスケープアーキテクトにデザインさせることもできますよ」みたいなことを言う。このあたりのニュアンスはちょっと分からない。でもこれも「ガーデンデザイナー」といわないところが不動産業界らしい大げさな言い換えなのかもしれない。