私が、生きる肌- The Skin I Live In


<公式> *以下、わりとネタバレ指数高めです!
日本語タイトル、どうなんだろうこれ。素直に訳しているといえばそうなんだけど(原題のスペイン語も英語とおなじ)、なんか川端康成的にあいまいな文になっちゃってないか。
それはともかく。表面的なとこでいえばこの映画、ほとんどプロット一発といってもいい。「愛する物を作り上げる科学者」+「のぞまない性転換」。とくに後者は、女であることの宿命的な被害者性みたいなところを徹底して描くアルモドヴァルの、これまたすごく明快なプロットだ。思えば、前に見た『抱擁のかけら』をぼくは「ペネロペのコスプレ映画みたい」と書いてた。OL、ゴージャス妻、昔風の女優、愛人、それぞれ表情もコスチュームもくるくる変えるペネロペ・クルスにそんな感じがしたからだ。でもあれも自由にたくましく生きるペネロペともいえつつ、生きるために、それぞれの世界の男たちに合わせて自分を変えなければいけなかった、そんな女性の姿だったのかもしれない。『ボルベール』がそうだったみたいにね。この映画は、そのコスプレが、タイトル通り自分がその中で生きなければならない「皮膚」のレベルになる。
ストーリー:豪邸に住む医師、ロバート・レッドガード(アントニオ・バンデラス)。2階には美しい、けれど奇妙な全身タイツを身につけた女ヴェラ(エレナ・アナヤ)と、彼女を世話し、監視する老女がいる。彼は妻を亡くしていた。不倫の末の自動車事故で全身火傷を負った美しい妻は、命は助かったものの、変わり果てた自分の姿に絶望して身を投げたのだ。彼女の面影は一人娘に残されたが、ある晩父ロバートに連れられてパーティーに出席した彼女は、若い男に迫られて気を失う。それがトラウマとなった彼女もまた自分で命を絶った。ロバートはあるプロジェクトを実行に移す。彼は高度な形成外科の技術があり、独自に開発した人工皮膚がある。若い男を誘拐した彼は…

「のぞまない性転換」。男が女にされる。ペニスが切除され膣が形成され、全身を整形されて、人工皮膚を移植されて、美しい女性に変えられる。自分で選んだわけでもなく、女性であることの受容プロセスを彼はしいられる。「本当の自分は男なんだ」という矛盾はつねに彼=彼女を苦しめる。強制的に性的アイデンティティの不整合を抱え込まされるわけだ。ここでは膣は形成されるけれど、なんというか内臓レベルでは彼=彼女の男性性は失われていないみたいな描き方だ。その代わり外見が完璧に整えられる。それがタイトルである「皮膚」だ。皮膚が、内面と関わりなく彼を彼女として存在させる。社会的存在である「あなた」を「あなた」以外の何者にもさせない、ある意味、表札つきの牢獄としての肉体。皮膚を保護するためという名目で彼=彼女は肌色の全身タイツを着せられている。これが2重に彼=彼女を束縛する皮膚になっているのだ。彼女の世話をしている老婆はロバートにいう。「あなたの亡き妻そっくりになってきてる」
妻が全身火傷を負った時、ロバートは人工皮膚の技術を持っていなかった。技術があれば彼女の容姿を再生して、彼女(の皮膚の中身も)生き続けさせることができたはずだ。ロバートは妻の皮膚のレプリカを作ろうとしている。他人の中身付きで。ロバートが無理矢理に男にほどこした性転換は、最初は復讐とか罰の意味があった。「望まない女性という立場を受入れて生きよ」という罰を与えた、そんなストーリーの流れなんだよ、どう見ても。でもやがて彼が作り上げた姿が、彼の欲望に一致するようになったときにその「罰」という意味はねじれていく。なんで罰を与える相手を最も愛した人の代わりにするんだ?ここの転換もそもそもの理由もはっきりとは描かれていない。だから最初に説明された動機の部分が、ちょっとチープというか動機づけのための動機みたいにみえないでもない。とにかくそれが一貫して罰なんだとすれば、それはもっと残酷な「その表面を生かすための器官としてのみ生きよ」という、男の人間性からすれば死刑といっていいものになっていくのだ。
……いずれにしてもロバートはまだ自分の「作品」にたいする欲望を表には出せなかった。だからひたすらヴェラを保護して監視して、それを観賞するだけだった。そんな関係を撹乱する存在として「トラ」という男があらわれる。スキンヘッドのマッチョで、しかもカーニバルの扮装だとかいいつつトラのメイクにトラの全身スーツを着た粗暴な男だ。実は彼はロバートの妻と不倫関係になった男だ。しかもたいした意味はない気がするが、もっと奇妙な因縁も用意されている。トラは犯罪をおかしていて、追っ手を逃れて家に上がり込む。そして物語はまた繰り返される。ここから先はいくらネタバレとは言え、自重しよう。

このあたりの象徴として、ロバートが人工皮膚をGalと呼んでいる(そうだ。見ている時には気がつかなかった…)。これはGalatea=ガラテアの略で、ギリシア神話の「ピュグマリオンとガラテア」にちなんでいるという。自分が作った美しい女性像に恋してしまった天才彫刻家に同情して、美の神アフロディテが像に命を吹き込んであげた…という 『マイ・フェア・レデイ』のストーリーの源泉にもなったお話だ。象徴といえば、トップの写真のイメージ、3番目の写真のバックにもちらっと見えている、赤い布の長椅子やベッドにけだるく横たわる半裸の美女…これ「オダリスク」というスタンダードな画題のひとつだ。オダリスクオスマントルコにいたハレムの女性、女奴隷のことだ。つまり、ヴェラが主人の意のままに囲われてただ美しくいることだけを望まれている状態そのものだ。ふまえてくるねさすがに。絵の構図としては「ウルヴィーノのヴィーナス」(この画面すごいw)にも似ている。
抱擁のかけら』では愛を失った男が、「映画の編集」というかたちで愛した女性を思うままに再生してみせた。『トーク・トゥー・ハー』では、意識がない女を献身的に看護するというかたちで男は自分が満足する愛の形をえた。アルモドヴァルの映画は、お互いが自立して存在して求めあっている、まぁなんというか「本来の」愛は、なぜか外からの無慈悲な力で終わらされてしまう。そのいっぽうで、女性がなんかの理由で自分の意思をあらわせなくなった時、無力な男は自分のつごうにあう「永遠の愛」を得る。もちろんそれは一方的で自己完結的な愛だ。まさにピュグマリオン的な、自分の中でこつこつ作り上げていくだけの箱庭みたいな愛だ。なぜだろう、とにかく彼はそれを描きつづける。