アンチクライスト


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ラース・フォン・トリアー奇跡の海』は、自然にかこまれた、けれど森のない風景だ、と書いたけれど、この映画は逆に森そのものが主人公のような映画だ。単なる「環境」じゃない、もっと能動的な意味のある「場所」だ。この映画での森のみかたは『カリスマ』(黒沢清)に少しにている。静寂なやすらぎの空間のように見えて、じつは命のやり取りがいつも行われているような野蛮な場だ、みたいな見方だ。『殯の森』のやさしい、受容的な森とはだいぶ違う。森と物語のことを書いてみよう。

ストーリー:ある夫婦(ウィレム・デフォー、シャーロット・ゲーンズブール)の夫妻はセックスの間に子供を不意の事故で失う。悲嘆で精神のバランスをくずした妻を、セラピストの夫は<エデン>と呼ぶ森のコテージに連れて行く。妻が「恐ろしいものは」という問いに森と答えたからだ。妻は1年くらい前に子供と2人でエデンにこもっていた。そこで女性を虐げてきたヨーロッパ文明の歴史を研究していたのだ。夫は森のなかでセラピーの続きを始めたのだが、森の自然はつぎつぎと不吉なメッセージを彼らに送ってくる。やがて妻は…

「自然は悪魔の教会」と妻は森をさしていう。「カオスが支配する」というタイトルも出てくる。現代の日本人からすると「森が…?」という感じがあるかもしれない。今のヨーロッパの人々にとってもどうだろう。これはむしろ古典にならった描き方だ。古層のヨーロッパ文明、森自体を聖なる場所としていたケルト人や北方ヨーロッパの住民はともかく、ギリシャ・ローマ文明にとって、森は日常からははなれた超自然的な聖域でもあり、豊穣をつかさどる獣的な神々が支配する所だった。「ゴシック」という言葉だってもとは森の世界である北方の民族をローマ人から見た蔑称だ。キリスト教=ローマカトリック文明がひろがると、森の住民は異端の民として周辺においやられた。ヨーロッパ民話の精霊や小人や魔女めいた老婆は、森にすむ先住民のことかも…とかいうでしょう。森そのものが日常の民にとっての「美しい場所」として絵の題材になるのは17世紀以降のことで、森はウィルダネス(人間がコントロールできない野生)の象徴だったのだ。中世までは高山も海辺も美しくない、なんだか感じの悪い場所に見られていた。

映画で「エデン」と呼んでいる森だが、たしかにエデンも宗教画では森としてよく表現される。でも映画にでてくるような森じゃなく、「自然に豊かな実りがつぎつぎもたらされる恵みの森」だ。果樹や実のなる木がみずから恵みをさしだす、自然の果樹園。この映画でカオスの森をあえてエデンと呼んだのはなぜだろう。原罪を背負い、楽園から追放された状態で彼らはエデンにくるのだ。一度罪を背負って森を出た人間が再びエデンに入る。無垢な人間にとっては楽園だったエデンは、その時はもう楽園であることをやめているのだ。

妻は必要以上にセックスを求め、満たされないと外に飛び出して大きな木の根もとで自慰をはじめる。その後この映画のイメージにもなっている例のシーンになる。あれも古いシンボリズムを感じないでもない。東洋では桑の木の下でするセックスには木の勢いある生育にあずかる意味があるというし、他にも植物の多産のエネルギーを受け取ったり、逆に大地に豊穣を捧げる意味で樹下でセックスするという儀式はけっこうあるのだ。夫が大きな木の下のうろに身をかくして自分を守るのも、大地母神の胎内に入るイメージを感じる。ちなみに少々ネタバレになるけれど夫が足に砥石(グラインダー)をボルト留めされる強烈なシーンがある。足に金物を打ち込まれる意味ではキリスト的だ。でもなんで砥石なんだろう。無理矢理っぽいけれど、grindという言葉は「研ぐ」だけじゃなく、わりと濃厚に性的な含意がある。それが彼の足かせになるという含みがあるのかもしれない。

夫婦がコテージで寝ていると、屋根に大量のどんぐりが落ちて来て眠れないというシーンがあった。どんぐりを落とす木はオーク(ナラ)の仲間だ。オークというのは、ある意味ヨーロッパ文明を支えた木といってもいい。採集文明の時代にはどんぐりが人間のお腹を満たしたし、その材は何千年にわたって建築・土木・造船・家具などに使われた。ケルト文化にとってオークはもっとも聖なる木だし、他の地域でも聖木になったのはしばしば森で一番の巨木になるオークだった。大量のどんぐりはここが前キリスト的な古層の文化の場所だということかもしれないし、「多産」のシンボルでもあるかもしれない。

さてこの映画、たしかに強烈だった。キリスト教国では日本どころじゃなく強い意味があるタイトルでもあるだろう。夫を論理=制度=科学の側において、妻を本能=自然=非キリスト教文化(=エデンの森)の側において対置し、意味ありげにサブリミナル映像を仕込んだり(意識上で分かるからサブリミナルとはいわないか?)、謎めいたセリフをちりばめたり、中世風の残酷画像を見せて性と罪について「解釈」を迫る。上に書いたみたいないろいろな意味づけができるイメージの豊かさもある。そしてもちろん生理的感覚に直接くるような、エクストリームな描写。演技ふくめてここまでやりきるというすごみは間違いなくある。でもずーんとくる重い衝撃は、正直『奇跡の海』『ドッグヴィル』ほどにはなかった。
なんだろう。監督はこの映画はホラーだといっている。驚かしたり怖がらせる表現には中田秀夫みたいなJ−ホラーの影響もあるとも。ホラーといえば「主人公が森に入っていきだんだんと狂う」そう、『シャイニング』をどうしても思い出すだろう。額面どおりに受け止めれば、この映画はテクニックで観客にショックを与えるジャンル、そういうタイプの映画でもあるということだ。その印象は確かに少しある。