ライフ・アクアティック


<予告編>
漫画っぽい絵やギャグ、シンメトリーな背景の真ん中に役者を正面から撮る肖像写真みたいな構図。わざと作り物っぽくしたセットや特撮。ディズニー制作のこの映画は、それこそピクサーのアニメみたいに、子供にもキャッチーな映像のなかで、大人のしんみりとほろ苦いドラマを描く映画だ。出演者は全員愛すべきひとびと。ビル・マーレイはもちろん、オーウェン・ウィルソンケイト・ブランシェットもすごくきれいに撮られているし、ウィレム・デフォージェフ・ゴールドブラムの愛嬌演技もいい。彼らの本拠地の島(南イタリアでロケしてる)は魅力的だし、ブラジル人がギター弾き語りで歌う、デヴィッド・ボウイの古い歌も泣かせる。
ストーリー:ズィスー(ビル・マーレィ)は海洋冒険家。妻でチームのブレイン、エレノア(アンジェリカ・ヒューストン)の助けをかりて大自然の驚異を追う。そのドキュメンタリーフィルムは世界中で人気があり、彼は子供たちのヒーローだった。けれどズィスーももう若くない。映画は精彩を欠き、制作資金も苦しくなる。でも映画祭に彼の息子かも…というネッド(オーウェン・ウィルソン)が現れ、彼の出資をうけてズィスーは新たな航海にでる。ネッドも取材記者ジェーン(ケイト・ブランシェット)も船に乗り込んだ。チームが追うのは幻の巨大魚…
アンダーソン印としか言いようのない物悲しいコメディで「エゴイストの父(母)に振り回されて、それでも追い続ける子供」の物語、『ザ・ロイヤルテネンバウムス』とも『ダージリン急行』とも似たモチーフがまた繰り返される。とはいってもこの話は「父」側にスポットライトがあたっていて、ひょっとするとその分明るいトーンといってもいいのかもしれない。主人公はジャック・クストーがモデル。それとなくというレベルじゃなく、そのまんまだ。
 左は本物のクストーさん
クストー。海洋冒険・研究・活動家であると同時に、ルイ・マル監督で制作した『沈黙の世界』でパルムドールを取り、そのあと作ったTVシリーズは『クストーの海底世界』として日本でも放送していた。ファンじゃなくてもクストーの名前はすごく知られていたはずだ。彼の欠かせないパートナーが調査船カリプソ号だ。もと英国海軍の掃海艇をフランスの資産家が買取り、調査船に改装してただ同然でクストーに貸してくれていたという、なんだかうらやましいというか、それだけクストーが魅力的な活動をしてたんだろう。船にはヘリポートも、船首の水中調査室もあった。映画を見た人なら彼らの船、ベラフォンテ号も、カリプソ号を忠実にモデルにしていることがよくわかるだろう。ベラフォンテという船名自体、もちろんね…。
 
上はクストーのカリプソ号。下は映画の「ベラフォンテ」号
ズィスーは偉大なクストーにくらべると、エゴイストで行き当たりばったりで嫉妬深く見栄はりで短気でエキセントリックな、あまりほめるところがないキャラクターにされている。ネッドと張り合って妊娠しているジェーンに色目を使い(そして負け)ライバルの富豪学者(ジェフ・ゴールドブラム)の妻も計測機器も横取りする。おまけにその記録映像は川口浩ばりの微妙演出にみちた作風だ。コメディ演出ってことだけど、クストー財団が不快感を表明したのかもしれない。たしか映画の前か後「この映画はクストーに捧げています」というクレジットのあとに、わざわざ「クストー財団は関知してません」的な文が出ていたし、DVDのコメンタリーではなぜか監督や脚本家のコメントからあきらかにクストーといってる言葉がなんとピーになってた気がした!
それでも作り手たちは、かれらなりにストレートなオマージュをささげたつもりだったんだろうと思う。映画はクストーのフィルムメーカーとしての面にいちばん光が当たっている。このお話は海洋冒険よりも映画を撮ることの物語だ。映画をつくることの映画。このジャンル名作は多い。はじめて映画を撮る喜びがあふれる『僕らのミライへ逆回転』なんかがそうだ。ズィスーにとって、いまでも映画を作ることが単純な喜びかどうかはわからない。でも彼は半分フィルムの中にいるみたいで、いつも映画のことを考えていて、その冒険も、おどろくような発見も、フィルムに納められないとそこに存在しない、そんな人間に描かれている。映画があるから彼の人生は次の世代、そのまた次の世代へとうけつがれる。ネッドもジェーンも、子供の頃にフィルムの中のズィスーに憧れたから今ここに集まってきているし、いまの子供たちだって海中の奇妙な生物に目をかがやかせる。そういう話なのだ。

クストー=ズィスーは「ヒーロー研究者」という、ひょっとすると今では珍しくなったタイプの存在なのかもしれない。インディー・ジョーンズじゃないけど、昔って子供向けのヒーローものや漫画にもアクティブな「博士」がよく出てきていたと思いません? さいきんどうだろう、いるかな? 
とにかくズィスーは、ひょっとすると虚像だとしてもまぎれもなくヒーローだったときがあった。それも子供たちが目をかがやかせるようなヒーローだ。だから物語に登場する深海も子供のファンタジーみたいな世界になっている。海中生物はリアル方向に行かず、ポップなストップモーションアニメだし、潜水艦はどこから見てもハリボテっぽい仕上がりだ。上に写真があるけど、船の巨大断面セットだってコントのセットみたい。それでも最後に潜水艦に全員で乗り込んで幻のサメにあいにいく場面は泣ける。ウェス・アンダーソンの持ち味は、どこからみても作り物っぽい世界の中で実生活にひっかかる感情にふっと触れるあたりにあるんじゃないだろうか。監督は、潜水艦のシーンはもうカーテンコールなんだという。とうとう出会えたサメだって、動きから柄からふざけてるといえばふざけてる。リアルじゃなくてもかまわないのだ。ズィスーのなにかを追い求めつづける人生、その象徴なんだから。でもズィスーは、会えただけでいいんだ、俺は十分なんだ、とは決していわない。彼はフィルムメーカーなのだ。その感動は共有されなくてはいけない。だから忠実なカメラマンは一秒も逃さずサメとの出会いを画面に収めるし、それはまた次の子供をわくわくさせる映画に昇華するのだ。