冷たい熱帯魚


<予告編>
これ見終わったらなんか本当に調子悪くなった。スプラッタシーンで気持ち悪くなったわけじゃないし、村田(でんでん)に圧倒されて被害者気分になったわけでもない。どっちかというと社本(吹越満)のどん詰まり感に、風景のさむざむしさも含めてなんだかどんよりしてしまった。園子温監督にとって「風景」はつねに寒々しく殺風景だ。家も街も富士山も山奥の小屋も。今まで見た3本ともわりとそんな風景だった気がする。というかそのあたりを美化したりゲタをはかせるのが嫌なのかもしれない。

終盤、意外すぎる逆転がおこり、観客の「ふつうの人視点」を代行して村田を観察する役だったはずの吹越満は『紀子の食卓』の光石研になってしまった。娘に軽侮され憎悪されて自分のもとから去られた無力な父親が、家庭が崩壊しきってから急に超人的に覚醒して暴力的なまでに物語を支配してしまうのだ。抑圧された無力なおっさんに思う存分ブチ切れてほしいという監督の想いがあるんだろうか。そりゃああなればある意味すっきりはするよたしかに。逆にいえばリアルな、ふつうの人状態をキープしたままの逆転劇を監督は描く気はない(もしくはそんな逆転思いつかない)ということでもある。娘(梶原ひかり)は『紀子』の吉高由理子とほとんど同一の存在で、見かけはそこそこ可愛いが性格には一片の可愛げもなく、父には一滴の愛情もない、父たるおっさんからすればほとんど恐怖の対象といってもいい少女像だ。父の逆転は結局「でもなぐれば黙るだろ」ということでしかなく、だからどっちの映画でも父の暴力は勝利じゃなく破滅の前の一瞬のかがやきにすぎない。
とにかくアレのせいで圧倒的な暴力の支配者であったはずの村田の絶対性がうすまってしまった。映画としてのみものはもちろん村田そのものなんだけど、お話としては、村田は社本を覚醒させるための巨大な試練みたいなことになってしまったのだ。監督はそういうことなんだ、家族の物語なんだ、とも言ってるけどね。黒沢あすかは『六月の蛇』以来ひさしぶりにみたけれど、さすがの美毒婦ぶり。