殯の森


<公式>
奈良市東部の茶畑や森に囲まれた里が舞台。30年以上前に妻を喪ってから生きる意味が見つけられないまま、山里にあるグループホームでくらす認知症の老人、しげきと、幼い子供を喪って罪の意識からのがれられないグループホーム介護士、真知子(尾野真知子)。しげきは33回忌を前に、森の奥に葬られた妻の墓にお参りに行きたいといいだし、スタッフの真知子はつきそいで山へむかう。ちょっとしたハイキングかと思ったら、意外にもそれは森の中の「死と再生の旅」みたいなものになる。それほど深いと思えなかった森は二人を飲み込み、雨を打ちつけ、夜のとばりに閉じ込め、神秘的な巨木を見せ、やがて弔いの場所へ迎え入れる。旅の中で真知子はトラウマがよみがえって、絶叫して泣きわめく。しげきは妻と一体化したい願望からたどりついた墓のわきに穴を掘ってそこに身をよこたえる・・・
喪失感に支配された人が、生きるために必要とするある種の儀式。そしてその心と強くつながる特別な場所の力。もちろんそれがテーマだと思うし、ぼくもそんな、ゆったりと淡々とした世界にひたるつもりで見始めた。ところが見てると、どうも思っていた感じとはちがうのだ。なにが? ひとことでいうとエロスが濃密にただよっているのだ。エロティックなシーンがあるわけじゃない。まぁちょっとしたヌードはあるけれど、そこはむしろ「あれっ」という感じで、その周辺のなんでもない描写が、どうみても喪失感で枯れきった二人の世界ではないのだ。もちろんこれは主演の尾野真知子をえらんだところから監督の意図だろう。こんなことを書いていると、美人女優が主演しているだけで勝手にエロい気分で頭が一杯になってお前は中2か、といわれそうだが、いやいやそういうことじゃなくてですね。
で、妄想乙といわれるのを承知でさらにひろげると、そういう微妙な空気をかもしているのは常に真知子のほう、というように見えるのだ。もちろんほんとに誘惑しているわけじゃない。たとえば介護という建前の中で「人のぬくもりを伝えあう」ためにひんぱんに身体接触し、あるいは、子供のように走り回るしげきになにかがふっ切れて、一緒になって追いかけっこをし尻をたたき、あるいは逃げ回るしげきを追うのに疲れて彼の前で体を横たえ、あるいは雨にうたれて冷えきったしげきを暖めるために体を密着させて・・・という「理由」のある動作のなかでそんな空気をただよわせるのだ。でもそれは、真知子のふるまいというより監督の視線なのかもしれない。喪失感におしつぶされているようでも女としてのオーラは発し続けているんだよ、というような。

しかし、しげきはその空気に反応せずに、まるで認知症のためにすっかりイノセントになってしまったように無害にふるまいつづける。おっかけっこのじゃれあいからやがて・・・みたいなことを考えていると、ひたすら子供がはしゃぐようにそれをつづけるしげきがいるし、映画の後半では、それまで保護される存在だったしげきが真知子をなぐさめ、抱擁するシーンがあるけれど、そこでも真知子の頭をぎごちなくなでるしげきの手つきは、まるで理解し合ったオランウータンが人の頭にふれているときみたいだ。真知子にだきしめられても子供のように頭を埋めるだけだし、裸の乳房を密着されてもおとなしくじっとしている。でも、しげき役の俳優はまだ60代なかばで、体も顔もぜんぜん枯れきっている雰囲気じゃない。じじつ体力は十分あるという描写だ。妻への思いが一途すぎて他の女性にまったく興味がわかない、という設定なのかもしれないけれど、あまりにもイノセントなのだ。なんだかこの高齢男性像がじゃっかんファンタジックに見える。見ている方は、認知症という、ある部分抑制が弱まっている設定のしげきがいつアクティブになるのか、という別の緊張感をもってふたりを見てるんだけど、そんなシーンはおこらない。唯一そう取れなくもない描写は、しげきが畑から無断で収穫したスイカを真知子の口に押込むシーンくらいで、それも無邪気なふるまいに勝手に見る側がなにか読み取るようなもの。・・・まぁ妄想はこのくらいにしときましょう。

舞台になる奈良市東部は市街地から10kmくらいのところで、低い里山と茶畑と田畑があるようなおだやかな土地。奈良県の南部の山地みたいなとんでもなく険しくて深い森とは少し違う。彼らが入っていく山も基本はコナラが群生し、林床はクマザサが一面におおっているような明るい林だ。きちんと道がついていて山の斜面もゆるやかだ。お話のエモーショナルなクライマックスで、雨が降り出した沢をしげきが渡ろうとするときに突然鉄砲水がながれてくるシーンがある。そもそも「撮影用に流した水」感がびんびんなのだが、あの手の森であの鉄砲水はちょっと考えにくい。たぶん真知子のトラウマティックな記憶のなかの濁流なんだろう。その後どんどん奥に入って行くと、林の様子も変わり、枯れて地面によこたわる大木がでてきたり、立ち枯れた杉の巨木があらわれたりする。ここは東大寺の東にある春日山原始林でロケしたそうだ。場所によっては太古の照葉樹林が一面にあってけっこうすごい眺めのところだけど、撮影された場所はあまりそういう黒々した常緑の森ではない感じだった。ただ、この物語、この地域の風習にしたがって土葬された妻の墓へ行くお話なんだけど、一昼夜歩かないと行かれないほど遠くの深い森に埋葬するというのはちょっと不自然といえば不自然だ。中高年登山の人たちでも一日10kmくらいは歩ける。山の中をそんなに歩いたら別の集落に行ってしまうだろう。ふつう埋葬は集落のエリア内の周辺部、森の中だとしても里との境界みたいなところに埋めるような気がする。物語上、巡礼といえるような長い山行を描く必要があって、そのあたりは微妙にファンタジーになっているのかもしれない。正直にいうと、大雨の後に余裕で焚き火をおこしていたり、寒いから裸でくっつくのしょうがないよね描写だったり、巨木に体をあずける私、だったりとちょっとファンタジックというかステレオタイプというか、そんな感じの森描写だなあとは思った。