十三人の刺客


<公式>
オリジナルは未見。ほとんど予備知識もなかったから一回目に見たときは刺客たちの身分もぼんやりしていた。殿様暗殺を命じられる主人公の島田新左衛門(役所広司)は御目付役、じつはこれ幕府のなかでもけっこう上位のポジションだったのだ(このサイト参考になります)。 諸大名の監視や諜報などが職務で、10〜15人しか任命されず、権力者である老中にも意見できる位置。老中の土井(平幹二朗)がリーダーに任命するのに最適のポジションだ。御目付役の石高は1000石で、大名でないけれど殿様クラス。
いっぽう敵役の明石藩主・松平斉韶(稲垣吾郎)は斉韶の養子の松平斉宣という実在のモデルがいる。将軍の実子で評判も悪く物語どおり、じっさいに尾張藩とトラブルをおこし、20歳で死んだ。明石藩越前松平家という徳川一族が藩主だからそれなりの格式だったはずだけど、尾張藩は御三家だから格式としても藩の規模としても相手にならない。そういう意味ではけっこう大胆なトラブルをともいえる。なんというか、検察エリートが地方の悪徳世襲政治家を挙げるみたいな話だろか。まあそんな図式もいまひとつわからないで見ていたんですが...
で、よく知らないと言っといてなんだけど、この映画、もう少しリアルよりの方が好みかなぁ…。たとえば密命を受けて新左衛門がメンバーを集めるあたり。やけに簡単に集める。極秘事項だし密通者だの使えぬやつだのが一人でもいたらまずいはずだけど、腹心の部下がつれてきた数名、居候の浪人と弟子、酒と女と博打に溺れる甥などがとんとんと集まり「そろいましたな」とかいって充実の笑みを浮かべている。このあたり極秘感、緊張感があまりないのだ。
それから人間ドラマのシンプルさ。究極の敵役斉韶以外は全員善人でマイナス要素が描かれない。斉韶のエクストリームな悪描写がきわだっているから陰影くっきりともいえるんだけど、刺客仲間は『椿三十郎』の若侍たちみたいでキャラにあまり陰影がない。周辺人物もそんなもん。そのあたりはシンプルな「痛快時代劇」なんだろうけどね、そもそも。

それから肝心の合戦シーン。惜しいのが庄内映画村にけっこう予算をかけて作ったであろう落合宿のオープンセットだ。約40軒も建物がある大規模なセットで俯瞰ショットや遠景ショットにもじゅうぶん耐える。約200mのメインストリートとサブのストリート、脇道、流れのある細道、池......敷地はほどほどに傾斜があって山間の宿場町らしさもそれなりにある。なにが惜しいかというと、その空間がいまひとつ把握しづらいのだ。『吸血鬼』でも書いたけど、セットでも説得力のある空間の説明は十分できる。この映画は自由に撮れる、実物にまけない大規模な空間をつくったのに、その空間がどうなっていて、刺客たちがどうそれを利用して、どういう風に多数の敵を効率的に倒すのかがわかりづらいのだ。メインストリートにゲートを作って敵を閉じ込め分断し、決定的に有利な上方から弓で攻撃する、序盤はこれなら…と映画的になっとくできる。でも折角つくった要塞はわりと早めに放棄してしまう。新左衛門みずから「小細工は終わりだ」などと自分たちの計画をdisりながら有利なポジションから降りて五分五分の白兵戦にもつれこんでしまうのだ。そこから後はカメラが白兵戦の中にいるショットが多いので(とはいってもキメのポーズなんかは望遠で浮き立たせる)どの場所で起きていることなのか分かりにくい。
白兵戦の切り合いは、西部劇レビューでしつこくいってる(これとかこれとかこれとか)言い方でいえば「自分の弾は一撃必殺、相手の弾は急所にあたらない」パターン。そもそもこいつら全員そこまで強かったっけ? あきらかに強い、という合戦前の描写は浪人平山(伊原剛志)と新左衛門の甥新六郎(山田孝之)くらいしかない。あとは「腕はなかなかのもの」らしき浪人がいるけれどその程度。十三人の刺客のコンセプト自体が<泰平の世で人を斬ったことのない侍たちが無我夢中で戦う集団戦>だから敵も見方もそれほどの戦士はいないのが前提なのだ。それが『300』とまではいかなくても一人平均10人を倒せるというのが説得力に欠けてる。もっと要塞の空間を上手に使って装置で敵を決定的に減らしてから、狭さを生かした市街地ゲリラ戦侍版みたいな感じで「弱者の戦術」を見せてくれたらむしろ格好いいのになあ…?『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』なんかは狭い香港のアパートの空間を使って階段や路地の見通しのきかない銃撃戦シーンをつくっていたけど、たとえばあの感じですよ。

とはいえ三池監督は役者をたてる撮り方はとてもうまい。『スキヤキウエスタン・ジャンゴ』でもお話はともかく戦う役者は格好よかった。映画の前半は、照明をおさえた渋めの映像で、描写もタイトでなかなかいい。最初の間宮(内野聖陽切腹シーンなんて、内野の出番はその2分くらいだけど最後まで忘れないすごい顔演技だ。首回りにみるみる血管が浮き上がって写っていない腹がどうなってるのかいやおうなく想像させる。老中土井に新左衛門が密命を受けるシーンもショッキング描写ふくめてきっちり描ききる。合戦シーンでは刺客それぞれ、殺陣でも死に様でも見せ場を用意する。「その他」的数名も放置しないで最後までみとどける。合戦のところどころで斉韶がスパイシーにふるまうのでいいコントラストになるし、ラストは新左衛門・半兵衛のライバル関係をきっちりと見せる。
<以下ネタバレ度が上がります>
あと、賛否両論の、山の民小弥太(伊勢谷友介)の扱い。斉韶にやられてどうみても致命傷を負いながらラストでひょうひょうと生き残る描写だ。新左衛門の血縁である新六郎が生き残るのはわかる。彼は使命をはたした新左衛門を観客になりかわって見送る役目だ。でも小弥太もわからないでもない。冒頭で「原爆投下から100年前の物語」とクレジットが出るこの話は、つまりそんなハイテクノロジーからわずか100年前、すでに時代錯誤寸前になっている侍ロジックの末期の姿なわけだ。非侍の小弥太はそれを相対化する役割だから「目撃者」として最後まで生き残り、それを後世に伝える立場なのだ。新六郎がラストでなんの思いも吐き出せないと少し息苦しいから、対話の相手としても小弥太は機能している。問題は一度やられる必要なかったんじゃないの?ということだろう。斉韶が人を殺す場面が欲しかったなら松方弘樹あたりが相手じゃだめなのかね。そして山の民が仮面ライダーでいえばアマゾンみたいな野生の超人キャラになってしまっているのもやや軽い。ぼくの感じてることは、そうだな、宮本常一の「山の道」でも読んでみてほしいです。