ぼくの伯父さん


タチの「伯父さん」キャラはひとつの定番で、1958年のこの作品のまえに1952年に『ぼくの伯父さんの休暇』を撮っている。伯父さんという存在のいい具合っぷりは古今の小説や映画やドラマが証明している。このブログでも小津安二郎の「伯父ー姪関係」について書いた。子供にとって「責任のない大人」が伯父さんで、たいていの親が全面的に発揮できない大人の遊びの部分を体現しているのだ。そういえばタチを敬愛していたという渥美清の『寅さん』にも「ぼくの伯父さん」という一作がある。とうぜん意識してつけたタイトルだろう。この映画のタチもその典型で、ひとことでいってダメ伯父さんの役。
ストーリーラインにはたいした意味はなく、エピソードごとの笑いを楽しんでいるうちになんとなくエンディングにいたる。タチは古き良き、産業社会以前の浮遊した民みたいなのを体現する存在で、旧市街の古いアパルトマンにすみ、陽気でさわがしい近所の人にかこまれ、古いモペットに乗って甥っ子のめんどうを見にやってくる。妹夫婦はこれと対比して描かれ、彼らはハイパーモダンの象徴みたいな家に住んでいる。幾何学的な広い道が交差する新市街で、彼らの家は庭までミニマリスト的な幾何学形態の庭だし、家の中もやたらと機械化されていて、妻はホコリをはらうのとボタンを押すのが主な仕事だ。その夫はビニールホース製造会社の社長。ここも機械化されている。こんなモダナイズされた、スクエアな人々の暮らしを皮肉って笑うのがこの映画のスタンスなんだけど、どうもタチ本人はこのモダンな世界が嫌いじゃなさそうなのが面白いところなのだ。だいたい、妹夫婦の家Villa Arpelの作り込みなんかけっこうすごいのよ。バウハウスやデ・スティルあたりの草創期のモダンデザインみたいで、庭は1920年代の「キュビストの庭」といわれる有名な庭園のモチーフが色濃くみえる。 ちなみにこの庭のある家の主は、コクトー、ダリ、ブニュエルマン・レイなど、その時代のシュールリアリズム系の最先端アーチストたちのパトロンだった女性。タチがこの世界につながりや、すくなくとも関心はあったのか、それとも単に美術監督が引用しただけか・・・
こっちが映画の家
これがキュビストの庭
それ以外でも「人間性のない」はずのモダナイズされた世界の描写がやけに格好いいのだ。映されるものすべてをグレイッシュに統一して、カラーなのにモノクロめいた画面におさえる。3車線の道路を車が走るシーンは、車のCMにそのまま使いたくなるような、流れるような車の群舞みたいな映像だ。ちなみにそんなシーンに出てくる車はおなじみのシトロエンルノーみたいな可愛い車じゃない。フランス車でいえばシムカ(わりと保守的なセダンで、会社自体1970年代に消えてしまった)。妹夫婦が乗っているのはアメリカのオールズモビルSuper88、そのあとうれしそうに買い替えた車がシボレーのベルエア、ほかにも大柄なアメ車の登場がおおい(まあフランスというのは伝統的に大型高級車のラインが弱くて、えてしてその部分は外国車におさえられてたんだけど)。ギャグの舞台になる工場もほこりっぽい雑然とした場所じゃなく、外からは何も分からないようなミニマルデザインのビル。だいたい、オープニングのクレジットがじつにしゃれてるのだ。この出方もモダンな工業時代的な雰囲気。このセンス、アメリカ文化への感覚は、次の『プレイタイム』で炸裂することになる。あと、彼の遺作がアニメ化された名作『イリュージョニスト』も見るよろし。