洲崎パラダイス赤信号


<参考(いちおう)>
これもぼくにとっては風景を楽しむ映画かもしれない。まあ古い映画ってそもそもかなりそういうものだけどね。もちろん話のテンポもいいし、ちょっと類型的だけど新珠三千代轟夕起子芦川いづみなどの女性キャラはなかなか魅力的だ。それでも今見たときのなんともいえない味わいは昭和30年頃の東京下町、というより東京の周縁部の風景がきいている。その味わい、作り手の意図とはあまり関係ないけどね・・・
はじめに映るのは中央区築地。正確には隅田川の河口部分にある勝鬨橋の上だ。やさぐれた女(新珠三千代)とくされ縁風の男(三橋達也)がぱっとしない会話をくりひろげる。映画が撮られた1956年ころ、勝鬨橋をわたった佃や月島はそれなりに江戸の香りのする漁師町だったり長屋の町だったりだろう。でも勝鬨はたぶんがらんとした埋立地だったろうし、その先の晴海もまだ公団の団地はできていなくてほとんど人は住んでいなかったはずだ。なんとかいっても勝鬨橋は当時の東京のはずれだったんだろうと思う。
煮え切らない男に愛想をつかして女はバスに飛び乗り、あわてて男もついていく。乗場は晴海通りの銀座よりだ。二人がバスを降りたのは今の江東区東陽町。木場の近くで、もとは河口の湿地帯だったり養魚場だったのを明治初期に埋立てて遊郭ができたところだ。それから何十年もたっているとはいえ、はりぼてみたいな売春宿や看板建築が目立つ人工的な雰囲気の町だっただろう。その先はもう海だ。ここもほとんど東京のはずれといっていい。男は倉庫の管理人だったけれど仕事をなくし、女はどうやら洲崎の遊郭の女だったらしい。ふたりとも社会の中ではマージナルな存在で、いわゆる「ふつうの社会」に入り込む余地は見つけられない。そんな二人だから地理的にも周縁部にいることしかできない。男の職場の倉庫だって隅田川沿いか東京港沿いだろう。当時のウォーターフロントを移動しているのだ。

右が明治時代。洲崎辨天町がそれだ。水路で隔絶されているのがいかにも、だ。(画像は今昔散歩さんから引用させていただいています)
二人が転がり込んだのは「橋のこっちがわ」にあたる場所だ。遊郭の例にもれず、洲崎パラダイスも橋をわたった向こうにある。かつて橋の向こうで働いていた女は、今度はわたろうとはしない。かろうじて手前でふみとどまった二人が入った居酒屋は橋のたもとにあって、そういう場所ならではの、いろいろな人間のふきだまりみたいになっている。遊郭の常連客だったり、中の女だったり、女に惚れて身請けしようとする男だったり。女は居酒屋に住み込みで働くようになり、男は近所のそば屋の出前の仕事を見つけてもらう。そば屋といってもこんな場所だから老舗でも名店でもないだろう。ホールで働いている可愛い娘(芦川いづみ)だけが店の売りで、娘は男を悪く思っていないふうだが男の視線は腐れ縁の女だけに向いている。物語はとにかく全編とおして男のぐだぐだぶりがあまりにも際立って、こいつのうっとうしさがすごすぎるんだが、女は女でよくいえば戦後的たくましさがあふれるようなキャラクターだ。

女は居酒屋の常連客の中小企業社長にアプローチしてなかよくなる。そして都心にアパートを借りてもらいこの町から脱出する生活を夢見る。社長の会社は秋葉原のラジオ店だ。男が女を追いかけて秋葉原に行くシーンで、50年代のラジオ会館あたりの風景がうつる。商品は古くさいラジオだったりするけど、店の雰囲気は今のパソコン屋とかわらないんだよね。男は栄養失調なのか路上でぶったおれて、てぶらで東陽町に帰ってくる。女も着物は新しくなったけれど結局帰ってくる。都市の中心はふたりを受入れなかったのだ。
男はまたそば屋で働きだす。このあたりは路地裏の飲み屋や寿司屋がならぶ、今もある下町の感じといえばそうだ。けれどどこかセットっぽい仮設感が抜けない。オープンセットだったのかロケだったのか詳しくはわからないけれど、ロケだったにしても戦後の焼け野原で完全にフラットになったところに急造で立った街並だ。埋立地だから町にリアリティをあたえる地形や古い道のなごりもよくわからない。ようするにこれ自体オープンセットみたいなもので、その辺の、古い町ならある重層感のなさが周縁部っぽいのだ。居酒屋は運河沿いにあって,部屋から水面が見下ろせる。裏ではボート屋も兼業していてそまつな木のさんばしが作ってある。こういう感じの景色は、いまでも柳橋や羽田や子安で見ることができる。この頃なら品川だろうと芝浦だろうと水辺ならそこらじゅうがそうだっただろう。そして水上は周縁部のさらに外のひとびとのすみかでもあった。
女は都心進出に失敗してずるずると「橋」をわたりそうになるけれど思いとどまる。橋はかたぎの世界と娼窟の世界の境をシンボリックなまでに映像化している。最初の勝鬨橋のシーンで月島側じゃなく銀座側に行くのも「こちらがわ」に向かおうという意味があるようにも思える。居酒屋は場所的にも社会的にも橋の両側の世界の中間点みたいな存在なのだ。だから居酒屋のおかみはがらがら声のいなせなおばさんじゃなく、包容力を象徴化したみたいな母性あふれる轟夕起子が必要になる。ところが終盤にその居酒屋に「あれっ」というような唐突な悲劇がおこってしまう。さまざまな人間のドラマを受入れる側だったはずの居酒屋家族が悲劇の当事者となってしまったことで、男と女はそこにいつづけることをあきらめ、次の場所をめざすことになる。そのリセットのシーンで物語は最初の場所にもどる。また周縁部からの出直し、勝鬨橋のうえだ。二人はこんどは一緒にバスに乗る。もちろん晴海通りの銀座側だ。