それから


追悼もふくめて見た。森田芳光R.I.P.
でも正直に言うと最初に見たときは映画のペースにうまく乗れなくてエンディングはまだかなーと思ってしまった。主人公二人、とにかく徹底的に動きを抑えた演出で、セリフも原作の言い回しをそのまま再現しているから、しゃべり言葉というより朗読しているみたいで、現代のリアル方向の演技とはだいぶ違うのだ。まったく動きもセリフもなく「間」としかいいようのない時間がたっぷりある。このペースがはまらないとね・・・
原作を読んでみた。「高等遊民」で有名な新聞連載小説だ。あらためて読むとこの描写も変わっていて、主人公代助が何を考えているかが、何を話し何をしているかとほとんど同じくらいのボリュームで書かれている。といっても内面を掘り下げるというより行動をひとつひとつ説明しているだけともいえ、漱石は代助という少し実験的なキャラクターをとにかく読者に理解させることに字数をさいているように見える。
映画では、代助役の松田優作は演技を相当抑制している(させられている?)。セリフや表情による感情表現も体の動きも抑えに抑え、そこから読取れる情報はかなり限られているから、観客が解釈する余地がかなりおおきい。代助の境遇や主義はセリフで十分伝わるようになっているけれど、小説みたいに過剰に内面を説明するどころか、ある意味人形浄瑠璃のような世界なのだ。

友人かつライバル平岡役の小林薫もセリフが機械的で実在の人間に見えないところは同じだ。父親役の笠置衆、兄役の中村嘉津夫、友人役のイッセー尾形も様式的、姪の森尾由美、書生の羽賀研二といった当時のアイドルたちはそもそも大根演技だけれど様式のなかに埋没して目立たない。唯一義理の姉役の草笛光子だけがわりあい普通の演技をしている。彼らの不自然さは、代助から見た彼らの戯画化された姿なんだろう。小説では、代助は自分が超然として世事にまどわされない分(無力だけど)真理に近づいていると思っているので、他人の殆どを嘲笑的に見ていて距離を置いている。基本的に、少し頭のいい中学生のマインドそのものだ。で、比較的対話ができて理解者なのが母性をもって接する義理の姉なのだ。
完全にその嘲笑の対象外にいるのは自分とヒロイン三千代だけだ。だからこの二人はトーンが違って、最初に書いたみたいな極端に静の演技になる。三千代役の藤谷美和子は文句なしに美しい。アルカイックスマイルをたやさず、不自然なくらい一定のトーンで話し続ける。これが非現実的なはかない美女をなんともいえない感じで表現している(ちょっと舌ったらずな発声が明治の女性らしくない、という文句はありそうだけど)。撮り方もとにかくきれいに見せることを最優先した画面で、こんなに美女だったっけ?というくらい美しい。こうやって見ると映画向けの女優さんだったのにね・・・。

背景はロケ場所の制約もあってか、自分の家、親兄弟の屋敷、平岡と三千代が住む借家、それに極端に象徴化された明治の東京(小石川あたり、市電のなか)だけなので、時代のリアルさはそもそも目指されていない。特に3回くらいある市電のシーンだけは、とつぜんたががはずれたように森田の夢幻的イメージ(といってもステレオタイプな気はする)が暴走してしまう。
原作に過剰によりそって、文体をそのまま再現した映画といえば『トニー滝谷』がある。ある意味『それから』と似ている。出演者たちが生身っぽい人間ではなく、物語の依りましみたいに機能する映画だ。背景も非現実的に見えるように工夫がこらされていた。そしてやはり動きの少ない映画だった。『トニー滝谷』は原作自体寓話のようなもので、それをリアリティの演出で撮ってしまうとそうとうおかしなことになる、というタイプの映画だったが、『それから』の原作はかなり時代性も反映しているし、当時の社会情勢あっての物語だ。連載時の読者はとうぜんそのあたりを織り込みながら主人公のふるまいを解釈しただろう。しかし世相といっても、おびただしい自己言及からわかるようにあくまで代助という独特のキャラクターの視点で見た世相だ。映画では、当時の時代性は、すでに現代からみればある種のファンタジーだからということで捨象して、「代助から見た世界」を主観的映像に近いかたちで再現してみたということなのかもしれない。
ちなみに父親と代助が対面するシーンは完全に森田の遊びで、露骨な小津パロディをやっている。かと思うと二人があり得ないほど顔を近づけて対面し、そのくせ視線をはずして対話するというそうとう気持ち悪い場面がはいったりもしている。