サウダーヂ


公式
ひさびさの映画館。映画館のよさのひとつは終了後の客の表情をみられることだ。どういうわけかみんな無表情というか、なんだか沈んだ表情に見えた。観察している自分も沈んだ顔をしていたかもしれない。楽しいけれど希望はない映画だ。今の日本人の多くが、実際にその立場でなくても似た気分を共有してしまっているから、どことなくどんよりした気分にならずにはいられない。
甲府。去年の秋に2回甲府に行った。南アルプスに登山に行った行き帰りだ。甲府の中心街から南アルプス登山のベースキャンプの町までは車でたしか30分もかからない。R20のバイパス沿いで晩ご飯をたべるところを探し、汗臭くなった服のかわりにでかい駐車場のあるユニクロでシャツを買って。車も人も多く、決してさびれた街には見えなかった。
でも映画の中の甲府、むかしながらの商店街にはまったく人がいない。監督は色々な商店街を上から、足もとから、真横から、いろいろな角度から撮り続ける。どこもダンジョンのように、無人の道が縦横に延びているだけだ。絵に描いたようなシャッター商店街の景色。昔の飲み屋街の殺伐とした昼の景色。
この映画、久しぶりに見た、人以外が主人公の映画だ。主人公は監督がいうように「街」だ。見た人ならはっきりとわかる。物語は群像劇のスタイルだ。それぞれのドラマを持っている人々をちいさい一粒としてのみこむ、どんよりと横たわる街の全景。彼らのだれかの物語にしないように、映画はめまぐるしくシーンを変える。どのシーンも断片であるように、物語として妙に落着しないように、観客が満足する前にシーンは切り替わってしまう。そしてまったく別の人間の日常にスライドしていくのだ。そのあたりの編集も格好よく、たとえば若者がクラブでダンスするシーンと、ちょいおっさんがいるタイパブでホステスが踊るシーンがカットバックされて、だんだんに「・・・おんなじじゃん」と思えるように融合していく。二つが(もちろんそれ以上の無数が)同時に起こっている、それが街なのだ。

そこにいる人たちはタイプがちがう、でもある層以外の人たちだ。彼らは土方であり、その親方であり、そこで働くラッパーであり、うさんくさい水を売る堅気じゃない人たちであり、その元にいる風俗嬢であり、流行らない結婚式場の経営者であり、元キャバ嬢のエステティシャンであり、東京から帰って微妙に目覚めた女の子であり、その同級生の元ヤンの女たちであり、そしてタイ人のホステスであり、仕事を失いはじめたブラジル人たちだ。
彼らの多くは実際にその世界の人たちで、監督はどうやって選び、どうやって演技をつけたのか、プロの俳優じゃないはずの彼らはびっくりするほど自然に画面のなかでふるまっている。土方の誠司、ラッパーの天野、誠司の妻で後半どんどん存在感が増す恵子、みんなやたらといい。誠司役の廣野毅は本物の土方だからスコップさばきももちろん、肩をそびやかすみたいな立ち姿が異様にさまになる。それでいて粗暴じゃなく、すごくまっとうなキャラクターなので観客は安心して彼に仮託する。天野のラストシーンの顔演技、恵子の30半ばなのに鼻にかかったなんとも言えない喋り。さっき主人公は「街」だと書いたけれど、もちろんそこにいる人の魅力でこの映画の魅力もなりたっている。スタッフもキャストも別の仕事持ちだから、毎週末に集まって撮影し、日曜夜に解散、というスケジュールをつづけたそうだ。とにかく独特な映画だよね。
この街にはもう未来がないという強烈な閉塞感。地方都市の閉塞感を感じる映画という意味では『サイタマノラッパー』に似た空気もある。誠司はそれに耐えられなくなって、可愛いタイ人のミャオに、一緒にタイに行こう、そこで働くよと真剣にもちかける。けれどもちろん、ミャオにとってはタイは強烈な閉塞感から脱出して来たその場所なのだ。ブラジル人たちはまるで黄金郷の(地元の10倍稼げるぜ!)イメージでやってきた日本で仕事がなくなり、故郷への郷愁だけがただようようになる。けれどたとえば日本で出会ったフィリピン人の奥さんと日本で生まれた娘たちにとってはブラジルも遠い異世界でしかないのだ。東京だってそうだ。地元から逃げるみたいに東京へ行って、ある種のカルチャーに染まって帰って来た天野の後輩の女の子。彼女の「意識のたかまり」も徹底的に戯画的に描かれて、結局東京だってこの街の人間にとって何かを変えてくれる場所じゃないと示される。

ようするにユートピアはないのだ。潔いくらいに映画のどこにもない。群像劇のなかの誰一人、ユートピアらしき希望の地へ半歩でも踏み出した人はいないのだ。誰もが行き詰まり、これまで何とか歩いて来た道からも転げ落ちそうになる。暖かい、にぎわった風景は過去の中にちらっと見え隠れるだけだ。マリファナの香りのなかにそれを見いだしていた男はいつの間にか消えてなくなった。そして彼らは遠すぎる故郷や、まだ見たこともない(結局は実在しない)異国に郷愁をいだきつづける。サウダージ
最後に印象的だった点は・・・最初に書いたみたいに、甲府から車で20分も走れば田園風景だ。もう少し走れば豊かな山々や渓谷や水源に囲まれている。ぼくたち他県の人はそれを求めて甲府を通り過ぎていく。でもこの映画のなかのだれ一人、自然のなかにひとときの癒しを求めてさえ行く人はいないのだ。唯一土方たちが森の中の現場にいき、クワガタを見つけたり鹿を轢いたりするだけ。閉塞した地方の若者にとって、自然ってなんなんだろう。いや、そもそも地方都市という都市の住民にとって自然との距離なんて東京人とそんなに変わらないのかもしれない。そのあたりの距離感が、甲府生まれの監督が見る甲府のひとたちのリアリティなのかもしれないな、と思った。同じ山梨を描いても『ゆれる』とずいぶん違う手触りだ。