カポーティ


<公式>
作家トルーマン・カポーティが1959年に起きた農夫一家殺人事件の犯人にインタビューしながら代表作「冷血」を完成させるまでの数年を描いた映画。静かな映画だ。
まず監督ベネット・ミラーが劇場用映画は初監督だということにおどろくだろう。ついでにいえば脚本家も映画脚本ははじめてだという。・・にしてはこの重厚さはどうだろう。少し彩度を落としてアンバーに振ったクラシックな画面、むやみにカメラを動かさない落着いたシーン。冬のカンザスのどこまでも水平な風景のショットを印象的に使い、物語のペースを上げすぎない。BGMも、刑務所のシーンなどところどころで効果的に使うが、俳優たちのセリフを聞かせるところではほとんど無音。とにかく演技をじっくり見せる映画だ。
俳優たちはすべていい。主演のフィリップ・シーモア・ホフマンは『その土曜日、7時58分』がなんといっても印象強いけれど、この映画では感情移入するのがむずかしいトルーマン・カポーティという人物をなんともいえない感じで再現している。とにかく画面に映っている時間が長く、おまけにセリフ量も多いから、このキャラクターの負の面にとらえられて嫌悪感を感じてしまったら、たぶんこの映画は辛い。それ以外の観客は単純に好きにも嫌いにもなれず宙ぶらりんな気持ちで主人公を見続ける。(観客にとっても)彼を支えてくれるのが、幼なじみの作家ネル・ハーパー・リーキャサリン・キーナー)だ。彼女もすごくいい。当時30代半ばの設定にしては年上すぎるけれど、かえってカポーティを見守る大人の保護者の雰囲気がよく出ている。そして犯人ペリー(クリフトン・コリンズJr)がさらにいい。貧相な男に見えるけど、きらっと光る知性や、油断すると顔を出す狡猾さや、それでいて人間的な情を求める心や、そのあたりのバランスがすばらしい。逮捕されてからのペリーはいっさい凶暴な所を見せず、ひたすら人間的な面だけが描かれるから、観客は自然に彼に感情移入する。対比として、殺人事件の相棒ディック(マーク・ペルグリノ)がこれまたいい感じに内面のわからない粗暴なキャラを打ち出してくる。

人物描写も抑制が効いている。皮肉なことにこの映画の公開(2005)の翌年に豪華女優をあつめた『Infamous』という、カポーティの伝記映画が公開されている。僕は本編を見てないが、トレーラーを見ただけもだいぶ描き方が違うのがわかる。こちらの映画のカポーティ役はちびのトビー・ジョーンズで、背の高い美女に囲まれて気取ってしゃべり、まるでパタリロだ。カンザスに取材にいくシーンでもきてれつな格好をしてる。かなりフリーク的な存在になってるのだ。ひょっとすると本物はこっちに近かったのかもしれない。実際の彼は160cmそこそこだった。本作のカポーティは、時々ちゃらいとはいえ悪趣味にはならないスタイルで押さえているし、そもそもホフマンの巨体で演じているから(小さめに見せる工夫はいろいろしているものの)大人の重厚さもあってこっけいには見えない。きらびやかなゲイの男性が1950年代の田舎町に行けば、住民たちの反感はそうとうあったはずだが、そのあたりの対立もあまり強調して描かれない。
ここで描かれるカポーティは、 知能が高く、ひたすらに人を引きつける話術を持っているけれど、 他人に対する感情移入の能力がすくなく、とはいえ同情や気配りが必要なシーンは心得ていて、巧みな世渡りの術も身につけている、ちょっと怪物的な人間だ。犯人からは情報という財産を絞りとれるだけ絞りとろうとする。その彼には同情的に書くつもりだといいながら絶対に原稿を見せず、じっさいには「冷血」と断じて発表していたり、パーティーで得意になって犯人のことを喋るシーンがはさまれて、どことなくアンフェアな印象を観客にあたえる。 子供っぽいエゴに愛嬌を感じるところもあるんだけどね。カポーティは、犯人の裁判を援助するが、作品を完成させるためには犯人の刑が執行されなければならない・・・後半、裁判が長引き、ネルともあまり会えなくなり、カポーティは追い込まれていく。なんとかいってもペリーに取材対象を越えた思いがあることはまちがいないし、自分のエゴイスティックな非人道性に気がつかないほど愚かでもない。前半に多かった、水平な大地のシーンがトーンを落着かせることもほとんどなくなる。そして、エピローグ。・・・評伝通り、この作品を最後に彼は長編が書けなくなり、精神のバランスを欠いて、20年後死んだことがテロップで流れる。
そういえば、たしかカポーティがペリーに差し入れた本にソローの「森の生活」があった。『イントゥ・ザ・ワイルド』でもちらっと書いた、エコ思想の源流ともみなされる19世紀の本だ。これが反体制的な書物のシンボルとして扱われていたのがちょっとおもしろかった。