フローズン・リバー


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格差社会・・・見るたびにどんよりする言葉だね。この映画はそんな格差社会の下側に吹きだまったひとびとの物語だ。主人公レイ(メリッサ・レオ)は、一家でニューヨーク州北端のトレーラーハウスにすんでいる。アメリ貧困層住宅の典型だ。昔は美人でイケイケだった雰囲気がかすかに匂うけれど、50がちかづき、ブロンドヘアはうねっても顔はニック・ノルティそっくりの風雪を感じるものになった。仕事は100均ショップのパート。故郷はどこだかわからないし、親戚づきあいも、近所づきあいも、職場の交流もない、コミュニティから断絶した住人だ。その貧困の描写はぐったりするくらいディティールにわたっている。
ニューヨーク州北端はセント・ローレンス河をはさんでカナダ国境に接する殺風景な土地だ。季節は冬、寒気団が来ると体感温度は−35℃まで下がる。この映画はそういう寒さの映画、冬の映画だ。ラジオは繰り返し低温注意報を発し、まわりは雪景色。クリスマスをまえにレイの夫はあたらしいトレーラーハウスの頭金を持ったまま蒸発した。そしてもう一人の主人公、ネイティブアメリカンのライラ(ミスティ・アップハム)は夫を事故で失い、養育できないからと生まれたばかりの息子を義理の母にうばわれた。映画はそんな人生の真冬のなか、家族への思いだけでなんとか自分を保っているふたりの母親のバディ・ムービー(相棒もの)である。

ふたりが守ろうとする「ホーム」。レイがあこがれるトレーラーハウスのチラシにはLive the Dreamなんて書いてある。夢の生活。今住んでいるぼろいハウスを息子がけなすと母は「これはあたしたちのホームよ!」とさけぶ。ライラは新しいベビーベッドを買いたくて危険を犯した。ハウスは50万円くらい、ベビーベッドなんて2万円で上等だろう。その金のためにふたりは河をわたる。Frozen River、凍ったセント・ローレンス河を車で渡るのだ。密入国者の手引きをする居留地のネットワークから預けられたアジア人たちをトランクに乗せて国境をこえ、一人あたり1200ドルを稼ぐ。国家内国家である居留地が(法律も警察も合衆国とはちがう)アメリカとカナダ国境をまたいで存在しているから成立する、実在のビジネスだそうだ。
犯罪にコミットしながらも、ふたりは母であろうとする。レイは稼いだ金を新しい家と生活費のためだけに使い、ライラは養育費の足しに義理の母の家にそっと置いてくる。中盤のクライマックスである「奇跡」は、ふたりが母だったからこそ起きた。奇跡が貧困層の白人と居留地のネイティブと密入国者のアジア人という逆境にある3人の母を結びつける。映画はこの奇跡をクリスマスの晩に起こさせ、異教徒のライラに創造主の名前を口にさせる。家にもどったライラは一人で背負子をせおい、子供に思いをはせる。そこから終盤のクライマックスへと流れていくのだが、そこでも彼らの行動原理はすべて「母心」で説明される。

監督はこれが初長編のコートニー・ハント。女性監督だからみたいな言い方はきらいだが、それでも、と思ったのが、メリッサ・レオの微妙下着姿をじっくりと見せるシーン。セクシーという「意味」がまったくない下着姿だ。それと、5歳の次男役の子のセリフや仕草がものすごくかわいい。映画全体の救いになっているくらいにかわいい。
気になったことがひとつ。この映画は「寒さ」が全編重要なモチーフなのだが、その寒さの描写が全体にどことなくゆるいのだ。たとえば壁が薄いトレーラーハウスの室内の寒さ(暖房費だってきびしいはずだ)、深夜に車から降りて歩く時の寒さ、どれも身体の苦痛みたいな厳しい寒さの描写じゃない。それに「奇跡」の場面。この場面の展開は、文字通り奇跡としてあつかわないかぎり、零下10℃以下という寒さにリアリティがなくなってしまう。
この映画は、その寒さに象徴されるように、どんなに厳しい人生を描いていても、救いのない絶望を描きたい映画じゃないということなんだろう。ラストはあたらしい、ささやかなコミュニティの芽みたいなものがちらりと見えて、雪が解け初めた風景のなか、かれらの「夢」がゆっくりと向かってきて終わる。