100,000年後の安全

映画『100,000年後の安全』
<公式>
FUKUSHIMA以前には、よく「核に対する日本人の特別な感情」という言い方が、特にアメリカの専門家からされてきた。でもぜんぜんそんなことはなかった。マス・ヒステリーは被爆体験と関係なく世界中にひろがった。科学者がいくら説明しても恐怖はぬぐいさることができない。核が人間の根源的恐怖をよびおこすあらぶる神のようなものだとすると、核施設はそれを鎮める神殿のような性格をおびるようになるだろう、と内田樹は書いた。この映画で紹介している核廃棄物の最終処分場も、たんなる産業廃棄物の保管場の雰囲気をこえて、どうにも哲学的な存在になってしまっている。
この映画の舞台であるフィンランドは、総発電量の25〜30%が原子力。天然資源がないという点では日本と事情は似ている。国の政策として高レベル放射性核廃棄物の地層処理を決め、世界ではじめて場所を決定して、掘削をはじめた。廃棄物が無害化されるまで100,000年のオーダーで保管しなければいけない。だから場所は地層が古く、きわめて安定している地域が選ばれた。らせん状のトンネルで地下500メートルまでおり、100年間にわたって廃棄物を格納して、最後はトンネルそのものをコンクリートで封じ込める。ばく大な費用をかけて作られた「地下都市」は、その目的をはたすために、完成後100年で人間の文明から姿を消すのだ。けれどそれは消滅するわけじゃない。100,000年、機能しつづけなくてはいけないのだ。
100,000年単位のデザイン。誤解をおそれずにいうと、あまりにも魅力的な問いだ。1000年単位のデザインといわれても我々は通常のロジックが役にたたないことに頭をかかえるだろう。それがさらに100倍なのだ。計画はもはや文明論になる。インタビューされた技術者たちはいう。「数万年後には地球上にふたたび氷河期がおとずれる。この場所は人間のすめる気候ではなくなって、永遠に人目につかない場所になるだろう」そういう射程だ。技術者たちは、映画の監督にたいして自分たちの技術に自信をみせる。リスクはかぎりなく小さい。唯一のリスクが・・・というのがこの映画のコア。ロードショー中でもあるしここから先はネタバレ自重する。皮肉なリスクだ。
そして技術者たちは、遠い将来の(いるかどうか分からない)人間に対する責任として、ここは危険で、はいってはいけないと伝えようとする。でもわれわれは数千年前のヒエログリフだって解読に何十年もついやした。つまり文字言語はそこまで寿命が長くないのだ。だから彼らは「絵」で伝えようとする。皮肉だけど、それはアートの力をしめしてもいる。たしかにラスコーの洞窟画を見て、われわれもそのメッセージを読み取ることができる。アートのほうが射程が長いのだ。
映画『100,000年後の安全』
映画はいわゆる反原発視点ではない。作家の立ち位置はニュートラルだし、核の貯蔵施設や、トンネルの巨大な工事現場やそこにある掘削機をあきらかに格好いいと思って撮っている。トンネルの見学会を大喜びで見に行き、掘削機の写真を撮りまくった僕にはよくわかる。換気用の太いソフトパイプもちゃんと意図をもって撮られている。よくわかる。なぜなら格好いいから。トンネルだけじゃなく、手間とコストをかけて色々な場所にカメラを置いて、ニュース映像では見られないような撮り方で原子力施設を見せる。そこにクラフトワークの曲がかぶったりするのだ。この映像美も映画の売りのひとつだ。数人のインタビュー映像は細かく切り刻まれて、リズムよく編集しなおされる。トンネルはもっとも効果的に見えるようにライティングされて、作業員たちはスロー再生のなかで意味ありげに歩く。
しかしだんだんとその装飾がうっとうしくなってきた。この映画、構造としては「出落ち」だ。「100,000年にわたって核廃棄物を保管する施設がある!」という唯一最大のインパクトは映画を見る前から観客には分かっている。だから物語的な興味で観客はひっぱれない。インタビューも淡々としてるし、工事だってまだまだ初期で、難工事モノ的な人間ドラマも見当たらない。テーマはこれ以上ないくらい興味深いけれど、商業映画としてはしょうしょう地味な素材だったのだ。監督は編集やカメラワークや、色んなタイプのBGMでなんとかそれを商業映画のパッケージに仕立て上げた。だけど見て行くうちに、素材をテクニックで膨らまし過ぎじゃないの?と感じ始めてしまったのだ。
ねんのため、この映画テーマとしては(何度も言うけれど)貴重だし面白い。映像もところどころかなりしびれるシーンがある。見て損はぜったいない1本だ。だけど、これまた何度も引き合いに出すけど、これとにたドキュメンタリー『いのちの食べ方』の寡黙さがなんだか思い出されてしまった。