抱擁のかけら


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アルモドバル+ペネロペ・クルスの第2弾。『ボルベール<帰郷>』に続いて完全にペネロペ映画となっている。あまりにもペネロペ映画であって、ほとんどペネロペのコスプレ映画といってもいい。ボディコンスーツを着こなす秘書ペネロペ、ナイトウェア姿のペネロペ、いつのまにか富豪と同棲してゴージャス化したペネロペ、そしてオーディションに受かって念願の女優となったペネロペはいろいろなウィッグをかぶってみたり、若い頃のオードリー・ヘップバーン風になってみたりする。その一方では富豪の愛人とのどろどろの関係のなかで十分にセクシーシーンを見せる。ついに逃げ出して、監督でもある恋人のマテオ(ルイス・オマール)とリゾート地へ逃避行。そこでも不思議なセクシー衣装に身を包んだり、ぴたぴたのジーンズのショートパンツでビーチに出る。悲恋の物語なんだけど、いやに衣装替えが目立って、なんだか可哀想に見えてこないのだ。もちろん彼女はルックスを見せびらかすだけではなくて、シチュエーションごとにきちんと演じ分け、映画内映画ではくるくると表情を変えて、上手にちょっと古めの演技を再現してみせる。その映画では同じシーンのNGテイクとOKテイクがそれぞれででてくるのだが、役者にとってはNGをNGらしく演じるのは意外にむずかしいんじゃないだろうか。とちったり噛んだりではなくて、精彩を欠いているというだけなのだ。

まあそんな感じで、正直な印象としては「スター女優の映画」以外の何者でもないし、どことなくそのテイストもクラシックなメロドラマを感じないでもない。そうはいってもアルモドバルらしく、それなりに複雑な構造にはなっている。まず映画を入れ子構造にして、めまぐるしく視線を使い分けてくる。まずベースになるストーリーのパート。観客からするとこの部分が「本当におこっていること」として了解される部分だ。それからストーリーのなかで撮られている映画。『神経衰弱ぎりぎりの女たち』を元にしたコメディで、その時と同じスタジオで撮ったポップな室内シーンが続く。女たちのそうぞうしいおしゃべりが中心だ。それに、富豪の息子が撮ったビデオ映像がある。これは愛人を監視するために富豪が撮影現場に息子をはりつかせ、ずっとレナ(ペネロペ)を撮らせているのだ。撮られているレナの気分がいいはずはなく、そこには不機嫌で敵意むきだしのペネロペが写しとられる。これにプラスしてマテオとレナが見るクラシックな映画が流れるシーンもある。これらの映像は観客に直接見せられもするし、ストーリーの中でキャラクターたちに見られることもある。
映画のなかでレナは14年前に死んでしまっている。もちろん悲恋のストーリーだ。でも、この映像の入れ子構造のなかでは、観客にとってその死は喪失かどうかわからない。観客はラストまでレナの生き生きした姿をずっと見続ける。それは映画の中の映画でもあるし、記録映像でもあるし、回想のシーンでもある。観客にとってはそれは等価なのだ。「映画のなかの1シーン」として見ればね。現実の美女ペネロペ・クルスはもちろん生きている。監督はあえてストーリー上の喪失に観客を強烈に巻き込もうとはしていないように見える。

ラブロマンスの定石どおり、ストーリーの中の人間関係は片思いの連鎖で、その頂点に主人公二人がいる。二人は互いしか見ていない。苦しい気持ちで男を見つめるのは、いぜん恋人だった女性スタッフ。それに富豪の息子。女を見つめているのは富豪であり、彼女を追う映画のカメラだ。その彼ら全員をさらに外周から観客が見つめるという構図になる。見つめるべき相手を失ったマテオは、だからその時点から視力を失ったのだろう。それでも最後に彼は過去の映像材料を編集し直して、レナの思い出である映画を、以前よりははるかにすばらしいものに作り直す。マテオはとにかくそれを完成させることが大事なんだとつぶやく。これをアナロジーだとおもえば、人生だって同じ材料からすばらしい部分を拾い集めて編集すれば、つまり認識の仕方によってすばらしいものに編集しなおせるんだよ、というふうにいえるのかもしれない。