500日のサマー


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久しぶりに見た、ほとんど純度100%のラブストーリー。繊細なトム(ジョゼフ・ゴードン・レビット)と、トムが恋したおなじ会社の新人、ちょっとエキセントリックなサマー(ズーイー・デシャネル)の物語だ。最初に見たときは、正直トムのイタさだけが残った。いまさらこの青い痛さは遠すぎる、恋に振り回されるDTに共感せいいわれても、くらいに。でももう1回見てみると、これがいやにしみじみと入ってくるのみならず、過去の痛すぎた自分像までがビビッドに呼び起こされてくる。いてててて・・・
この映画、たいていの人がトムやサマーに、どこか自分の経験を重ねられるはずだ。なぜかといえば、それがほぼ純度100%のラブストーリーだから。二人は設定上は本当にふつうの文科系男女。スペクタクルな展開も、ゴージャスな小道具も、乗り越えるべき障害もない。IKEAに、映画に、レコードショップに行き、公園で建築を眺め、もちろんお互いのアパートでいちゃいちゃし・・・世界のどこの都市のカップルでも自分たちに置きかえられる、シンプルな恋の話だけの映画なのだ(とはいえ画面も舞台も衣装も音楽も十分にお洒落である)。よけいな設定やドラマがないぶん、二人の性格設定がきわだち、観客は二人の心の機微に集中して、あるある的に喜んでみたり、自分の記憶にかさねて身悶えしたり、すごく自分たちに引き寄せて観賞できる。ようするに、ケータイ小説みたいなおおげさな出来事なんてなくても、恋にはまっている人間にとっては、その気持ちのアップダウンだけで、世界は十分すぎるくらいドラマチックなんだ、ということだ。だからだれでもそこにゆさぶられる。
どこからみてもボーイ・ミーツ・ガール、少年と少女の恋物語でしかないんだけど、設定は大学を出た社会人、というところもいい。観客だって同じだからだ。年齢や立場は立派な社会人。だけどハートの部分はいつまでも少年少女・・・という、ある種の本音まじりの願望を、てらいもなく実現してくれているのだ。これはアメリカ映画ではかなりめずらしいんじゃないか。トム役のジョゼフもサマー役のズーイーも格好良すぎず、日本人から見てもなんだかちんまりした二人でもあり、そこもすごく等身大に見える。加瀬亮永作博美が同年代でいる、みたいな感じかな。構成は今っぽく時系列を細かく切って行ったり来たりするけれど、 ぐちゃぐちゃではなく、ちゃんと恋の上り坂と下り坂が感じ取れる。 先回りで結論が分かっているので、見ていてストーリーはどうなるどうなる、という方に引っぱられず、ディティールに集中できる。分割した画面やミュージカル仕立、ドローイングとのミックスなどのギミックを入れて、適度に恋物語のべたべたさから距離を置いてあっさりした手触りにしている。

この映画はトム目線の物語。 恋に慣れない、あるいは恋に没入しすぎてしまった男の、舞い上がった一方的な思いそのものが映画の視線だ。 繊細なトムのゆれうごく感情の描写が多いから、とうぜんトムに思い入れやすい(すくなくとも男は) 。 サマーは何を考えているのか分からない、勝手で意味不明な理屈をこねる、そのくせ妙に男の操りかたがうまい、しまいには腹の立つ女の子にも見える(すくなくとも男には)。けれど2度目に見ると彼女の立場がよく見えてくる。 繊細さというのはしばしば鈍感さとセットになっている。 じつはけっこう公平に描いているのだ。彼女の側に身をおいて見るといっそうしんみりするのは、サマーがビッチなわけじゃなく、トムがはじめから傷つく運命にあるように見えてくるからだろう。まあ、自分の立ち位置をむやみに美化した言葉で宣言する女子(いるいる!)ともいえるけどね・・・

ところでDVDならではの未使用テイクがなかなかいい。例えばトムの友人のポールも公開版よりさらに痛い男になっているし、なにより、トムが別の女性とデートするシーンの勘違いした痛さが半端じゃない。そしてそのシーンでトムの恋の愚痴をさんざん聞かされた女性がサマーの気持を代弁する。このシーンがあると観客もああそうか、と気がつく。公開版ではこのセリフはなく、彼女は微妙な表情をして、そのあと愛想をつかすだけだ。表面上はトムの立場だけで統一して、サマーの心情は行間で読んでね、という描写で徹底したのは、より味わいを深めていると思う。それにしてもかわいい映画だよねえ。