許されざる者



<参考wiki>

制作・監督・主演クリント・イーストウッド。1992年公開の「最後の西部劇」。単純にウエスタン・アクションとしても十分見られる映画だと思う。でもこの時期にあえて西部劇を撮るなら、ましてイーストウッドのように作家として撮るなら、どうしたってそれなりの批評性を盛りこまないわけにはいかない。古き良き西部劇の終了を告げたような本家「最後の西部劇」『ワイルド・バンチ』から23年。無邪気に馬に乗ってさっそうとインディアンと追いかけっこをするわけにはいかないのだ。イーストウッドはそのためにふたつの現代的視点を持ち込む。
一つは彼の政治的信条であるリバタリアン思想の戯画化だ。個人は最大限の自由を得るべきであり、政府・統治者の権限は最小であるべき、という思潮にくみするイーストウッドは、保安官を正義をかさにきた暴力主義者として描く。保安官は街の治安を守るために、なんの犯罪も犯していないよそ者に(顔見知りの殺し屋だが)いきなり暴力をふるい、監禁する。その後、今度は主人公の相棒を監禁して、拷問の末に殺し、さらしものにする。そしてメディア人をこれ以上ないくらい戯画化した品性下劣なジャーナリストを手元に置いて、あわよくば自分の美談を書かそうとする。ジーン・ハックマンはこの役でアカデミーの助演賞を獲得した。監督は1960年代のロス市警本部長を役作りのモデルにするよう言ったという。SWATを創設した人物だ。
ロス市警といえば忘れてはいけない事件がある。一人の黒人が複数のロス市警警官に、職質のさいいきなり暴力を振るわれ、その映像が公開されてニュースになった、ロドニー・キング事件だ。裁判の結果警官は無罪になり翌年のロス暴動のきっかけになる。この事件発生が1991年、つまり映画公開の1年前だ。観客はいやおうなく保安官にロス市警をだぶらせただろう。そこにいるのは古典的な正義の味方どころか、とんでもなく現代的な暴力の独占者としての治安当局だ。
もう一つは西部劇のメインディッシュであるガン・ファイトだ。イーストウッドは、日本の時代劇の斬り合いを現代の殺傷事件とみるような、ある意味掟破りの視点を持ち込んでいる。通常は西部劇にしろ時代劇にしろ、普通に殺人がおこなわれていても、観客は倫理的な居心地の悪さを感じない。舞台を(西部劇はせいぜい数十年から百年前だが)遠い過去に置くことで、そこはほとんど異文化の神話的世界となり、現代の倫理的基準をあてはめる必要がないという無言の約束があるからだ。
けれどイーストウッドは銃による殺人を執拗にリアルに描いて見せる。ターゲットをライフルで狙撃しても、一発では死なない。狙撃手は急に2発目を撃てなくなり、しかたなく主人公が撃つ。それでも即死させられず、相手は苦しみ抜いて死んでいく。もう一人のターゲットは若者の殺し屋が仕留める。彼はずっと虚勢をはっていたが見るからにノービスで、実は初めての殺人だった。彼はその嫌悪感に耐えられず、銃を捨てる。銃で人を殺すことは、そんなに簡単なことじゃない、と繰返し映画は語る。保安官が監禁した殺し屋の連れに銃を向けられるシーンもある。しかし彼はまったく余裕を失わない。ふつうの人間には、そんなに簡単に銃を撃って人を殺せないことを彼はよくわかっている。

主人公マニー(イーストウッド)は伝説的な冷血の殺し屋。引退して豚を飼い貧乏暮らしをしている彼は、若い賞金稼ぎの誘いにのり、古い相棒ネッド(モーガン・フリーマン)に声をかけて同行する。1880年代の西部で、黒人が白人とパートナーとして殺し屋稼業をできたのか、そこは分からない。これもある種の現代的アレンジじゃないかという気がする。*1 また、イーストウッドが繰返しモチーフにしている「父性をもった年長者」の姿がここにも明確にあらわれる。若い殺し屋に対して、時には手本を見せ、時には本人に経験させ、説教をし、道をふみはずさないように導く。ミリオンダラー・ベイビーに最良の(そして最も哀しい)かたちで描かれた、他人の若者に父親として接する老人のモデルだ。殺しの依頼者は街の娼婦たち。仲間の一人がふたり連れの客にナイフでさんざん切りつけられた復讐として賞金を掛ける。しかし街は暴力的な保安官が仕切っている。
マニーは旅の途中で体調をくずし、街についたものの、いきなり寝込んで生死をさまよってしまう。数日後、とつぜん季節感を無視した雪景色の中、彼はよみがえる。顔を切られた、けれど最も美しい娼婦との対話で、彼が高い倫理観で自分を律していることがわかる。しかし体調が戻った彼は、仲間と殺人に取りかかる・・・そしてクライマックスの銃撃戦。ここでリアルな銃撃という方針は突然180度転換してしまう。マニーはためらいなく銃を乱射して敵を次々撃ち倒し、自分には敵の弾はかすりもしない。絵に描いたようなフィクショナルな無敵のヒーローになってしまうのだ。ここはどうなんだろう。正直ちょっと理解に苦しむ。もっとリアルに必要な相手だけ倒すのじゃダメなの?よくいう、「銃の乱射シーンはエクスタシーのメタファーだ理論」的なところで派手にイきたかったのか、娯楽作として。

ちなみにこの映画の銃声、「ズキュゥ―――ン」という嘘くさいタイプの効果音を使っている。反響するものが何もない草原での発射でもこれだ。じつはこのタイプの銃声はマカロニ・ウエスタンでよく使われた音。セルジオ・レオーネの作品でキャリアをスタートし、この映画自体をレオーネとドン・シーゲルに捧げているイーストウッドのリスペクトの表し方なんだろう。

結論。『善兵衛のダーティー・オールド・ヒーローファンに<待ってました!>と無理矢理いわせるラストの大見得!』

1追記。「カウボーイは白人男性」というのが、そもそも西部劇でつくられたフィクションで、メキシカンやアフリカン、アジア系など有色人種が大勢いたそうだ。無知やった・・・一緒に殺し屋になるかは別としてね。