ローズ・イン・タイドランド

参考

テリー・ギリアムの最新作は、ヒース・レジャーが途中で死んでしまったせいで製作が中断していたけれど、2009年にようやく完成した。 だいたいギリアムは中断や途中でポシャる企画が多い監督で、『ロスト・イン・ラマンチャ』という、自分の映画がポシャるドキュメンタリーさえ作られているという意味では『地獄の黙示録』の笑える裏側、『ハート・オブ・ダークネス』が作られたコッポラなみの大物ぶりともいえる。
この映画も、『ブラザース・グリム』が中断している間に低予算で撮られた一本だそうだ。 『グリム』もなかなか面白い。ハリウッドエンターティメントだからお話はスムースだがイメージや映画的仕掛けは充分に豊かである。CGをぞんぶんに使える環境で、彼のイメージはこのうえなくリッチに再現された。まっ、CGらしさ全開だけどね。 『タイドランド』はそのあたり、たしかにあまり金が掛かっている風ではない。主人公の女の子ローズが穴に落ちるシーンなんて、『マルコビッチの穴』なみのチープさだ。しかし、すべてのシーンにざらっとした手触りがあり、引っかかりがあって、スムースに流れて気持ちよくエンディングに到達し、振り返ると何も残っていない、みたいな映画とは対極の、濃密で毒まみれの一本だ。

(以下ちょいネタバレ)
この映画の主人公、ジェサイア・ローズは孤独な女の子。父親と二人で、亡くなったおばあちゃんが住んでいた故郷の古い家をめざす。地の果てのような何もない草原だ。友達は4体のバービー人形だけで、しかも完全体はなく、ひどいのは首だけしかない。ストーリーはこの辺で。映画はローズにとっての世界のすがたが描かれる。彼女に見える世界が観客の見る映像で、彼女の発見が観客の発見で、彼女の倫理観が映画の倫理観だ。だから映画は幼児的なセンスに満ちている。
その代表が「死」の扱いだろう。彼女の友達であるバービー人形からして、目が欠けたり首だけだったりと、濃密に「死」の香りがする存在で、それらを彼女は子供特有の残酷さでいたぶる。 そして本物の死。最初の死はオーバードーズによる母親の急死。これはジャンキーである父親と一緒に、ベッドを母の好きなもので埋め立てるという騒がしい儀式で対応する。ギリアムは母をひたすらうざい人間として描くことで、少女があまり母の死を悲しんでいないことに観客を無理やり納得させる。これは序盤の軽いエピソードに過ぎず、流した方がいいからだ。
次に、これまたオーバードーズによる父親の死が起こる。これはより丹念に描かれる。少女は父親の死を理解できない、という建前のもとに、死体に仮装をさせたり口になにか詰込んだり「死体遊び」を始めてしまう。やがて大人の介入によって、父親の死が確定すると、少女は初めて普通にショックをうける。しかしこの世界で出会う唯一の大人である「幽霊女」デルはどんな死体でも剥製にしてしまう職人なのだ。父の死体はオブジェ化され、琥珀色の剥製となってベットに横たわる。生前の面影を残した彼がいつでもいることで、死は絶対の別れではなくなる。 その後もデルの母親の剥製が彼女の家で発見されたりする。 こういう一見とんでもない描写の連続によって、「両親を相次いで失った少女」という物語が当然陥ってしまいそうな「死の絶対的な悲劇化」をたくみに避けて、自由さをキープすることができるのだ。
父親の死が確定して、デルが剥製を完成させると、その弟ディケンズとローザとの3人はぼろ家の大掃除を始める。にぎやかなBGMのなか狂騒的な勢いで家は清められ、壁が白く塗り替えられる。この「掃除」という行為の儀式性。これによって生者たちは、死者(祖母・父)が支配していたそこをリセットして、自分たちの秩序のもとに置くのだ。祝祭的な祓えの儀式が終了すると、アリスのティーパーティーになぞらえたお茶会となる。ちょっとじーんとする(俺だけか?)いいシーンだ。
死に対しては子供であるローズは、しかし同時に「女」としても描かれる。このあたりもタブーを嫌うギリアムらしさ全開だ。隣人ディケンズは、実年齢は大人だが、脳に障害があってローズ以上に幼い。ローズは彼を気に入り、彼と友達になるだけじゃなく、優位な立場で性的なコミュニケーションをはかるのだ。完全に無色で無垢に描かれた『パコと魔法の絵本』のパコとの違いが際立ちすぎるだろう。
外の世界から隔絶されているようなこの草原は、カナダ中部のサスカッチェワンという高緯度の土地(原作はテキサス)。唯一鉄道が外とつながる要素だ。ローズとディケンズはときどき線路脇に行って列車を眺めたりする。  ちょっと面白いのは、二人がどこまでも歩いていくと、ふいに巨大な採掘現場を見下ろす場所に出るのだ。物語では世界のすべてみたいだった草原が実は有限なものにすぎなくて、その果てに現実との接点がある、ということを言っているわけで、このシーンは何のためのものだったんだろう。ブラジル映画『セントラル・ステーション』で、主人公が都会からはなれてひたすら果てへ行くと、結局新興住宅地についた、というシーンを思い出した。

結論。『<この世界>がOKだったら善兵衛絶賛!としかいいようなし!』