蜘蛛巣城

参考(Wiki)

シェイクスピアマクベスをほぼ忠実に時代劇に翻案したこの物語、陽性でどことなく楽天的なものが多い黒沢の時代劇の中ではめずらしく、ダークな世界だ。霊や物の怪、裏切りと暗殺と物狂いの世界。 コミカルな演出(たとえば『隠し砦の三悪人』みたいな)はほとんどない。そして黒沢映画のなかでもきわだってスタイリッシュな映像で、どのシーンもリアリティを追求するより、様式的で、どこか抽象的な画面が多い。

舞台になる山城のデザインはいわゆる「和風」のディティールが省略されている。 そして不毛の荒野(富士山麓のオープンセット)に立っている。これって日本の城では基本的にありえない。ヨーロッパの古城か修道院みたいなロケーションだ。霧の深い森林を抜けて、荒野に出ると霧が晴れて城が見えてくる。 霧は、大和絵の金雲みたいに時間の経過をつないだり、主人公たちを迷わせて預言者に導いたり、「森が動く」シーンを夢幻的なものに見せたり、効果的につかわれる。
鷲津と妻(山田五十鈴)がいる城や屋敷の室内は、がらんとして家具も装飾もない板の間だ。戦国時代といっても本来ならもう少しディティールがあるのが普通だろう。ストイックなまでにシンプルな部屋になっているのだ。妻の動きは能の所作を取り入れて、あまりシルエットが変わらない。シンプルな背景のなかにびしっと人物を配置した画面構成はすごい完成度だ。あえて「血の通わない」この描き方は、最後まで預言の言葉に取り付かれる彼らの空虚さをシンボライズしているんだろうか。
三船の演技はクラシック、様式的なもので、常に声を張り上げて怒鳴っている。動きよく言えばもダイナミック、かなり大げさなものだ。しかしこの重量感は唯一のものだろう。 対照的に、山田五十鈴は、表情のわからない能面のようなメークと動きのすくない演技だ。そのくせセリフは非常にダークで、夫の周囲への信頼を打ち砕き、疑惑と恐怖を植え付けて、主君殺しや同僚殺しをそそのかす。物の怪以上の不気味さだ。その報いをうけて最後には物狂いになる。そのシーンだけ目を見開き、急に人間めいた演技になる。
鷲津たちが最初に預言者にあうシーン、原作はスコットランドらしいヒースの荒野で三人の魔女に会うのだが、映画では日本らしい森林(ロケ地は奈良の春日山)の中で迷い、森の奥で山姥めいた老婆に出会うことになる。山姥のシーンや霊があらわれる特撮シーンは、今の目からみるとその時代ならではのものだけれど、かえってその稚拙さや粗い白黒の画面のせいで、別種の不気味さがある。 
それから黒沢得意の乗馬シーンの格好よさは指摘しないわけにはいかない。森の中を疾走する馬を真横から望遠レンズで追い続ける。前景の木立がつぎつぎと後ろへ飛び去って、スピード感と走っている道の空間性が表現される。高速コーナーリングのシーンも多い。ある疾走シーンはいくつもカットをつないでいるのだが、スピードと方向性を一致させているので、疾走感が途切れず、加速するような印象を与える。

この映画でアイコンになっているのは、ラスト、主人公鷲津武時(三船敏郎)が矢で射殺されるシーンだ。 この撮影は本当に危険で、三船は黒沢をしばらく恨んでいたというのは有名なはなし(というか、ただ恨んでいたどころじゃないのだ)。このシーンにかぎらず、矢という匿名的な(それでいて弾丸とちがって物自体は見える)武器の冷酷さがうまく使われている。 「弓の名手」的な顔の見えるキャラクターはいない、ただ匿名の殺意とともに無数の矢が飛んできて、顔のある人間がなすすべなく死んでいく。 名シーンといわれる『俺たちに明日はない』の「死のダンス」と似たコンセプトのシーンだ。 これはさまざまな物語にある悲劇の英雄の最期のひとつで、転落する英雄は、名高い戦士との対決で名誉ある死をとげさせてもらえない。 そのかわり凡庸な群集の手にかかって惨めな最期をとげる。 原作のマクベスでは主人公は対決の末に死をとげているけれど、黒澤はより近代的ともいえる惨めな死を主人公にあたえたのだ。

結論。『娯楽性を押えてその分凄い緊張感が持続する、善兵衛必見!』