鏡心


参考

石井聰亙韓国映画祭の企画で、制作費を与えられて自由に撮った(らしい)短編映画がベース。 監督自身が「自分のスタイルの中の一方の極致」といっているように、ドラマというよりひとつのメッセージを映像で表現したような作品だ。 序盤のドラマ部分、中盤のイメージ部分、ラスト再びドラマ部分というようにわかりやすい構成になっていて、説明的なナレーションが最初と最後に入るので、「わけわからん」ということはない。 このスタイル、ラストのオチはそれほど斬新でもない。 アリア(イギリス・オムニバス映画・1987年)のケン・ラッセルのパートを思い出した。塚本晋也の「HAZE」にもどことなく似ている。

正直にいうと、ここで語られていることにはたいして感動しなかった。 ざっくりいえば、仕事に行き詰るヒロインが、その悩みを存在論的に拡大して、ある種の自分探し的なトリップに出る。バリのような美しいところでたたずんで、自分らしさを取り戻したと思った彼女だが、そこでであったもう一人の女性にその場所の意味を諭される。 というもの。

ヒロインはあこがれだったバリ(らしきところ)に、いつのまにか立っている。さまざな美しい風景のなかで風に吹かれながら髪と衣装をなびかせる彼女の後姿が続く。・・・もちろん美しい風景だ。 風の吹きかた、水の表情、光の風景、そんな自然の現象がつくる風景をていねいに見つけて撮っている。 しかしどこかお行儀がよすぎる気がして、美しい風景の断片的な、しかもわりとふつうのアルバムに見えてしまった。 見ているハードのせいもあるかもしれない。大型ハイビジョンモニターで見ていたら感動したのかもね。

この映画、パナソニックDVX100という、ハンディなデジタルビデオで撮っている。映画と親和性が高く、フィルム調にトーンカーブを調整する「シネガンマ」という機能があり、この映画もその形式で撮っているようだ。 作品のなかにも、ヒロインの自分撮り用ハードとして何度も写る。 そしてサウンドの編集にも独特のテクニックを使って、単なる環境音響以上のリアリティを追求しているらしい。 なんとなくは分かった。でも、うちの音響ハードもあまりたいしたことがないのよね・・・
「現実」パートでは渋谷駅とその周辺ばかり写るが、そこは思い切り彩度をおとして「グレーの町」として撮り、ヒロインのダークな気分をそのまま表現する。そして色彩にあふれたイメージのパートのあと、ふたたび写される現実パートでは西日を使ってどことなく暖かい、最初にくらべると色身のある風景に撮っている。

ヒロイン市川実和子の悩める女優/脚本家ぶりが秀逸だ。 針小棒大にあれこれ自分がたりをしたあげく、彼氏に説得されると「ぜんぶ、理屈だよね」と返す、ヒロインのうざさを完璧すぎるほどに表現している。・・・ただし、美しい。 モデル出身とはいえ、かなり不思議な魚顔で確固たる位置を占めている市川実和子だが、監督はハイキー気味のアップでおどろくような美女に撮る。やまだないとのマンガのヒロインそのものだ(それが美女かというとまた別だが)。酔っ払って(ラリって?)カメラに向かって喋る姿なんて、妙に可愛く見える。 アレか、いつもだいたいおなじような不思議な生物の役ばかりやらされているほうが、片寄ってるのか。
これに2人の男が相対するのだが、KEEはいやに世間じみたつまらないセリフをあたえられ、町田康はおなじように「おまえ現実を見ろよ」式に説教する。ドラマパートでは唯一本音っぽい町田康がいい。途中からキーパーソンになる(が、まったくそれに見合った存在感がない)女性役、猪俣ユキの不思議な棒読みセリフも魅力的だ。

結論。『善兵衛が感動するとしたら映像と音楽。だから感動も再生環境しだい!!』