いのちの食べ方


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食べ物について多少でも関心があるひとなら見て損はない映画。 すくなくとも自給自足か、完璧にルートがわかっている食品だけで生きている人以外はね。 映画館で見たとき、小学生の娘を連れて見に来ているお母さんがいて、そのセンスに感心した。

ひとついえることは、この映画、とてもストイックな一本だということだ。 先進国で食品材料がつくられている現場をただひたすら写し続ける。塩・野菜・りんご・オリーブ・魚・鶏そして豚・牛・・・ やっぱり鉱物よりも生物、植物よりも動物が、ある時点でそのものから「食品材料」になっていく姿はインパクトがある。その行為そのものにも、そのプロセスにも。
だから、たぶん、余計に監督はストイックになる。 カメラは基本的にフィックスで、扇情的なズームインなんてないし、ナレーションもBGMも一切ない。 働く人のおしゃべりも多分意識的にカットして、ほとんど言葉のない映画になっている。 画面は水平垂直がきっちりして、時にシンメトリーで、ベッヒャーの写真のような距離感だ。 もちろん制作者なりのスタンスはあるんだろう。 撮る対象の選び方にも、撮る角度にも、編集にも。 それでもこの映画のメッセージは、ただ「君たちはこれを食べてるんだよ」と見せることにあるみたいに思える。 判断はあなたたちがしなさい、というようにね。
ちなみに、この映画のなかに、最近問題になるような偽装やごまかしや目を覆うような不潔さは一切見当たらない。 撮影に協力した、食品生産企業は、たぶんそのプロセスに自信があるんだろう。 だから安易な突っ込みは入れられなくて、それだけに考えさせられる。

しかしなんといっても僕がうなったのは、あらゆる生物を工業ラインにアジャストするために開発された、奇怪なマシンたちの姿だ。 生物たちの動きや大きさ、体重や、そして命のもろささえも全部織り込んで作られ、最も効率的にそれを処理していく金属のパーツ。
豚も鶏も、生きているときから、冷徹に作動するマシンによって、いやおうなく動作も決められ、命を失った後も、圧倒的な機械のパワーのもとに、規則正しく、姿を変えながら移動していく。 固有性の極致のような、一点の目的だけのためにデザインされたマシンの、奇怪で、でもスムースなうごき。 農業や牧畜業の映像のはずなのに、バックには機械のノイズだけが鳴り続けている。 そこには「個」の命にたいするリスペクトはもちろんない。 その結果は・・・高い生産性だ。

そういえば、むかしお菓子の巨大工場で夜中のバイトをしたときのことを思い出した。 そこのラインでは大福のようなお菓子をつくっていた。 機械のラインにのるまえに原料にはじつに色々な液体がかかっていた。 その精密機械のラインをみると感覚としてわかる。 この薬品だか何かがこの世界では必要なのだ。 だいたい食品なんてこの精密機械となじむような均一なものじゃないのだ。 固さだって味だって物性だってばらつきがあるだろう。それを均一な工業素材にしようとするんだから「素」で勝負するなんて無理にきまってる・・・徹夜作業と機械のノイズでもうろうとした頭でそんなふうに思った。
結論。『善兵衛が日頃食べている動物たちが、どの時点から「おいしそう」に見えるのか、この映画で確認!』