ユージュアル・サスペクツ


これ、はじめて見た。95年の映画だからあんがい昔の作品だ。どうやら名作のリストに入っているらしいから、いまさら一から紹介する必要もないね。興味がある方はこのへんをどうぞ。で、以下の文にはネタバレがあります。
wikipedia:ユージュアル・サスペクツ
amazon:ユージュアル・サスペクツ

この作品は「うそ」についての映画。あるシーンを見せておいて「はい、うそでした」というどんでん返しが映画のキモだ。その結果、観客は「さっきまでのどれがうそで、本当なんだ?」という混乱におちいるだろう。
見方や立場の違いによって何がほんとうかうそかあいまいになる、というタイプの映画は案外多く、というか僕が好きなせいか、ここでもよく取り上げている。つまりリアルって何だ、ということだ。そもそも虚構をできるだけリアルに体験させる、というのが映画の出発点なんだから、観客にとってのリアルの定義はじつはそれほどはっきりしたものじゃない。ストーリー上の本当とうそにしても、フィクションの世界の中ではちがう物だが、もう一歩引いてみればどちらもフィクションという意味ではうそだし、俳優の演技がフィルムに収められている以上、どちらも本当に起こっている出来事だ。だからどのレベルに自分を置いて見るかによってこの映画のシーンも本当になったりうそになったりあいまいになる。
これは「物語る人」についての話でもある。昔から物語を語り伝える役目の人がいた。口承=この映画の語り手のあだ名と同じ“ヴァーバル”でだ。聞き手は物語を事実かそうでないかなんていう区別はつけず「そのもの」として楽しみ、受け止めた。この映画における聞き手、関税捜査官は物語をうそか本当か判断し続けなければいけない。しかしその外の世界にいる観客と同じように物語の魅力にとらえられて、その世界に引きずりこまれていく。
この映画のレビューでは「最後にうそってオチはないだろう!」と怒っている人がときどきいるけれど、多分シンプルな構造のストレートなストーリーが好きな人だろう。でも彼に問いたい。強烈なエロシーンが映画で出てきて、最後にそれが夢オチでした、といわれたら、さっきまでの君のエレクションはうそになるのかと。ん?この問い、ズレてる? それよりこの映画の問題は、そのどんでん返しが、オチより前にびんびんに予感できてしまうことだろう。

ヒロイックでないせいか助演扱いだが、事実上の主役がケヴィン・スペイシー。かなりいやらしい男の役で、そのいやらしさを表現しきっている。彼はヘタレ男を演じる男を演じているのだが、ヘタレ男そのものに見える。それだけにラストシーン、約10秒の間にヘタレから怜悧なボスに戻るシーンはなかなかだ。
それよりベニチオ・デル・トロだ。僕がはじめて彼を画面で見たのは至高作「ラスベガスをやっつけろ!」のデブ弁護士役だったので、そういう俳優だと思い込んでいた。「シン・シティ」で「あれ、ちがうのか?」と疑問が生じはじめ、「チェ」のトレイラーを見るとデブこそが一時的なものだったことにやっと気がついた。しかしユージュアル・サスペクツでののっぽのチンピラはちがいすぎる。というか、プエルトリカンのチンピラが日本のそれと全く同じセンス、ということはありえるのか。それこそリアルなのかそれは、と問いたい。パンチ風の四角い頭に、剃り込み、眉毛を剃って、黒いチンピラ風スーツに赤いシャツ。そしてラテン系のなまりともつかない意味不明ななまりで喋る。そして序盤でまっさきに死ぬ。ああでなくちゃいかん。

結論。『善兵衛がベニチオのどチンピラぶりに惚れた!』