リトル・ミス・サンシャイン

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こわれかかった家族の再生の物語という点では『ロイヤル・テネンバウムス』とかさなる。『ロイヤル』にくらべて描き方はノーマルだし、なんだかほのぼのとしているし、美少女じゃないがかわいい女の子が中心にいるし、心あたたまる映画のような気がしてくる。
でもどうなのよ。
寓話である『ロイヤル』よりもずっと皮肉っぽく現存するひとたちを戯画化しているし、それぞれのダメさ加減もずっとシビアだし、よく見ると出演者だれも救われていないし、意外にヒューマニスティックじゃないし、実はほのぼの系ダークの映画なんじゃ・・・
すでに人生に敗北しつつある(のに無理やりポジティブ・シンキングをする)父、なんとか家族を支えるが嫌気がさしている母、家の空気のせいか絵に描いたようなひねた中学生気質になっている息子、ある意味終わっているのでふっきれている爺、そしてペシミスティックな伯父、そういった救われない人々の期待をすべてしょいこまされたのがミス・コンに出場する(美少女じゃない)少女だ。
ミスコンに参加するために彼らは旅に出るが、最初は家族にまったく一体感もなく、車はひどくぼろい。このあたりはロードムービーのお約束でもある。車はぼろくなくてはいけない。しかもまったく攻撃性を感じさせないワーゲンのバンだ。すぐに車は機能障害におちいり、押さないと動かない状況になる。このあたりが「全員をつつみこむ」けれど「協力しないと動いていかない」といういやらしいまでにわかりやすい家族の象徴みたいになるわけだ。同時に動き出した車にあわてて飛び乗る人々の姿を横から撮るシーンは、だれかがいつ振り落とされるかわからないまま突っ走っていく社会みたいな印象にもなる。
ちなみに伯父は「40歳の童貞男」のスティーブ・カレルで、彼はゲイのフランス文学者という、これまたなんだかステロタイプな感じでいいんだが、ちょっと彼の存在がいきていない気がした。伯父は自殺未遂をして、妹の家族に引き取られてはじめてこの家にやってくる。「どんな家族なんだ?」という視線でこのどことなくおかしい家族を観察する立場なわけだ。これはつまり観客の視線の代理ということで、外部者に託してひとつの世界を紹介していくスタイルは映画では(小説でも)観客をスムーズに物語世界に引き込むためのオーソドックスな手法だ。
でも彼はあっという間に家族のなかで存在感を失ってしまう。彼の視線が観察するまでもなく家族はおおさわぎをくりひろげ、あっという間に旅にでる。彼のゲイという設定も、わずか1シーンでしか生きてこないし、フランス文学という部分はそれこそなんの意味もなく、ただの地味な男として車を押したり家族の一員となってうごくだけなのだ。ほとんど頭数にすぎない。設定からジョーカー的立場なのかと思ったら、ジョーカーはむしろ元ジャンキーのお爺さんの方だった。
クライマックスで、彼らが目標としていた少女ミス・コンテストが、じつはおそろしく醜悪なものだったことがわかる。数年前のあるニュース映像を思い出してしまった人もいるかもしれない。日本人から見るから異様なのかとも思ったけれど、アメリカのレビューでもかなりきつい言葉で表現されていたからあきらかにそういう描き方なんだろう。その世界から浮いている主人公の家族は逆説的に健全な存在になり、じつは何の救いもないのに、爽快な気分になって、日当たりのいい道路をまたぼろい車にのって帰っていく。
結論。『善兵衛をなんとなく過ぎ去っていったハート・ウォーミング・ストーリー!』